さて、お楽しみの前に、大修館書店の『英語教育』1月号の特集「日本の英語教育は今どうなっているのか」がとても素晴らしかったので、少し紹介させて頂きます。
(売れ行き好調なのでしょう。Amazonでは本日の時点で在庫切れです。)
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雑誌が郵送されて来てすぐに、特集記事全部を一気に読みました。
共感の下線をたくさん引きながら。
共感の下線をたくさん引きながら。
巻頭論文は、重鎮の大谷泰照先生の「日本人と『英語』との距離:言語教育のあり方を考える前に」。
ブレない批判精神と大所高所からの問題の本質を捉える力量。敬服の一語です。
ブレない批判精神と大所高所からの問題の本質を捉える力量。敬服の一語です。
そうした根本的なところを忘れて、TOEFLでのスコアを根拠に日本の英語教育や英語教師バッシングを行うのは不当です。
(しかも、日本語は世界第9位の巨大言語であり、豊かな国内市場を持っていますから、日常生活で英語を必要としません。)
大谷先生は、以下のように論文を締めくくっておられます。
「異言語学習に及ぼす言語的距離の関係という、いわば最も根本的で動かしがたい言語環境のあり方には目もくれず、ただひたすら指導技法の転換だけで、英語教育の飛躍的な前進が可能であるかのように思い込んできたこの国の言語教育論議には、この際、謙虚な猛省が必要であると言わざるを得ない。」(12ページ)
次は、金谷憲先生の論文「英語教育をめぐる議論を整理する:正しい理解のために」。
見事な考察が続きます。
見事な考察が続きます。
「6年間もやっているのに英語が使えない」という俗論に対しては、次のように指摘しています。
「生徒の毎日の生活時間のうちにしめる〔英語授業時数の〕割合を算出してみた。その結果は3%以下ということになった。(中略)これで英語が身についていなければおかしいかどうかは、特段の議論の必要もないだろう。」(14ページ)
「学校の英語教育に求めるべきものと、その他の機関や自助努力に求めるものとを混同すると、学校の英語教育を正しく理解することができなくなってしまう。」
「むすび」では以下のように指摘しています。
「目的達成の手段が、現実の制約や物理的環境を正しく理解せずに提案されていることも、成果の上がらない大きな要因だろう。
利用可能なリソース(ヒト、モノ、カネ)の把握が正しくないと、どんな立派な政策(?)やスローガンも、いたずらに教育現場を混乱させるだけに終わってしまうことになる。(中略)教育については、拙速は禁物である。」
利用可能なリソース(ヒト、モノ、カネ)の把握が正しくないと、どんな立派な政策(?)やスローガンも、いたずらに教育現場を混乱させるだけに終わってしまうことになる。(中略)教育については、拙速は禁物である。」
この一文には、特に共感しました。
3本目は、斉田智里先生の「英語力はどう測るのか:テストの経年変化からわかること」。
斉田先生が、ついに伝家の宝刀を抜きました。
斉田先生が、ついに伝家の宝刀を抜きました。
先生の博士論文のひとつの結論である、高校入学時の英語学力が14年にわたって継続的に低下しているというデータを、ついに『英語教育』に載せてくれたのです。
全体的に低下を続けているだけではなく、「特に中位層から下位層にかけて低下の程度が大きいということも明らかになりました」。
歴代の政策責任者は、この問題をどうお考えなのでしょうか。
なお、斉田先生は私たちの『英語教育、迫り来る破綻』(2013.7)の緊急出版や、大学英語教育学会・外国語教育メディア学会・全国英語教育学会による緊急提言(京都アピール:2013.9)についても、次のようにコメントされています。
「世の中が特定の政権や団体によりある方向に急速に進められようとしている時に、その方向の妥当性をエビデンスに基づいて主張することは、学者、専門家としての社会的責任であり、上記のような行動は、非常に意義があると思います。」
この場を借りて、お礼を申し上げます。
このような発言を公表すること自体が、現在では勇気ある行動なのかもしれません。
斉田先生の誠実さに敬意を表します。
斉田先生の誠実さに敬意を表します。
このほか、拝田清先生の「英語教育政策の変遷を追う」なども見事な論文なのですが、ライブ練習の時間が来てしまいました。
お許し下さい。 <m(_ _)m>