希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

激変する「大学の英語教育」(週刊朝日3月7日号)

週刊朝日』3月7日号が届いた。

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その中に「激変する『大学の英語教育』:160大学 国際力アンケート&ランキング」(37-40ページ)という記事があり、面白い。

記事のリードは以下の通り。

大学が競うように英語教育に力を入れている。国や自民党の方針も受けて、英語能力テストを活用し、外国人教師を増やし、英語のみで行う授業も導入を進めている。ただし、英語一辺倒への批判の声も出ているし、企業も英語力偏重での採用に疑問を抱き始めている。大学の英語教育はいま、どうなっているのか。

同誌は全国160の国公立・私立大学にアンケートを実施。
その結果、TOEFLTOEICなどの英語能力資格試験を学ぶ講座があったり、受検料を一部または全額負担する大学など、様々な支援をしている大学が半数近くに達した。

と、そこまでなら、よくある翼賛記事。
その続きが面白い。

「もっとも、こうした英語一辺倒の教育には、批判的な声も出てきている」として、慶応大学の大津由紀雄名誉教授の談話を紹介している。

「多くの大学は、英語能力テストのスコアをあげる目的で授業をしている。点数をあげるためのテクニックを養うことばかりに注力してしまい、本来の英語の基礎力がついていない学生が増えています。本来、大学で行う英語教育の目的は、専門分野の論文を読み、外国人と議論するための英語力を育成することでしょう。その目的から離れています」

大学が英語能力テストの「予備校」に成り果ててしまっているというのだ。

「英語能力テストで高得点をとった学生でも、自分の意見を述べ、他人の意見について批評する能力がない学生がいます。これでは、真の英語力を身につけたとはいえません」(大津氏)

続いて、江利川春雄の「強い懸念」も紹介している。

「政府は大学の授業を英語で行うように促していますが、これは危険な発想だと思います。そもそも、明治時代の中期に、明治政府は大学教育を英語から日本語で行うように変えました。海外の最先端技術や思想を日本語に置き換えて、深く考えることができたことが、近代化を支えてきたのです。外国語に頼った明治初期のような教育に戻せば、日本人の学問水準が後退します」

これを受けて、記者(金子哲士さん)は次のように書いている。

「江利川氏によると、英語を使った授業が増えれば、学生は英語を理解することに頭を使って、本来、学ぶべき一般科目や専門科目の内容を深く考えることができなくなるという。」

*なお、京都大学では教養課程の授業の半分を英語で実施し、そのために日本人教員を減らして外国人教員を100人雇うというトンデモ方針をトップらが打ち出している。
これに対して、京大の教員有志が反対声明を出している。
http://forliberty.s501.xrea.com/archives/587

続いての見出しは「英語力一辺倒を疑問視する企業」

まず江利川の発言を紹介。
「そもそも、グローバル人材を育成するには、英語一辺倒ではおかしい。たとえば、中国語などほかの言語や文化にも通じた人材を育てる……これが真のグローバル化ではないでしょうか」

続いて「大学が英語教育に力を入れるのと裏腹に、企業側は『英語力』重視を疑問視しはじめているようだ」として、大手メーカー幹部の本音を紹介している。これが興味深い。

TOEFLTOEICの点数がよい学生を即戦力として採用したのですが、ビジネスの場に投入してみると全然使えない。職場でのコミュニケーションがとれなかったり、他社との交渉ができなかったり……。いわば『英語バカ』の社員が増えて、困った状況になっているんです」

最後は「国際化に必要な自国文化の理解」という見出しで、地元・岡山や瀬戸内の文化を学ぶ授業も取り入れている岡山大学グローバル人材育成院の取り組みや、「グローバル化=英語がすべてのルールを決める」という考えに批判的な立教大学異文化コミュニケーション学部の池田学部長の談話などを紹介している。

金子記者による締めの言葉も秀逸。

「本当の『グローバル』な人材育成には、『英語力』だけが重要なわけではない、ということだろう。」

なお、この記事の一部は以下で読むことができる。
そちらのタイトルは「大学の英語授業で『日本人の学問水準が後退』?」