希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

「授業は英語で行う」考

来年度から施行される高校の新学習指導要領には,「授業は英語で行うことを基本とする」という暴論が盛り込まれている。

文科省から「授業は英語で行った方が教育効果が高い」とする実証データは示されていない。

なら,せめて歴史から学んでほしい。

そこで,ある本から,次のような会話を紹介しよう。

A. 「近ごろ日本語を用いないで英語を授業をしなければ,ほんとうの英語の授業でないように,ある雑誌に書かれていましたが,私たちが中学校で英語の授業を受けたときは,英語は読んでは訳し,読んでは訳していくだけであったように思っていますし,それで結構英語の力が出来たように思いますが,どんなものでしょう。」

B. 「・・・〔研究社の「英語教育叢書」(1935-37)を挙げて〕ただ一つの方法とか主張というものにとらわれなところがいいと思いますね。はじめにある片寄った主張による参考書を読むとなると,無批判にそれが最もいいということになって,それを直ちに,教室で実施することになって,大切な生徒をあるいはspoilすることにならんとも限らないからね。
 ちょうど十二三年まえだがね,〔授業を英語で行う〕Oral Methodでなければ英語教授にあらずと盲信した若い英語の先生が,四国の田舎の中学で,そのまま実施したんだね,二学期頃になって”to be stumped”の〔行き詰まった〕状態になって悲鳴をあげたということだが,最もよく効く薬はまた毒にもなるといわれているように,教育者の心得べきことですよ。
 (中略)実際に用いるまでには,生徒の環境,自分の能力,英語教育の目的等,いろいろの方面からの条件によって決定されなければならないからね。」

以上の出典は,定宗数松「英語教育の文献」で,『英語研究の文献』(三省堂,1937)に収められている(表記等は現代風に改変)。

伊藤嘉一『英語教授法のすべて』(大修館書店,1984)には,英語教授法は「現在,文献上に記載されているものだけでも40種を超える」と書かれている。

今日では,さらにずっと多いだろう。

人間は一人一人異なる。
だから,唯一絶対の教授法などありえないのである。

戦前から,パーマーをはじめ,「授業は英語で」行っていた。
しかし,それを全国一律に実施することなど,とてもできなかった。

パーマー自身,5年後には自説を変更し,日本語の使用も認めた。

もちろん,「読んで訳すだけ」の授業にも限界がある。

75年前に定宗数松が述べているように,教授法は「生徒の環境,自分の能力,英語教育の目的等,いろいろの方面からの条件によって決定されなければならない」のである。

「経験と歴史が教えることは、人民や政府はかつて歴史から何も学ばなかったということであり、歴史から引き出される教訓に従って行動したこともなかったということである。」ヘーゲル『歴史哲学講義』)

原発問題もまた,そうかもしれない。

いや,そうであってはならない。