希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

書評 寺島隆吉『英語教育が亡びるとき』

○ 寺島隆吉『英語教育が亡びるとき:「英語で授業」のイデオロギー明石書店
(2009年9月刊、本体2,800円、326頁 →Amazon

新高校指導要領への告発状

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近年刊行された英語教育書のベスト1を問われたら、評者は躊躇なく本書を挙げる。
視野の広さ、考察の深さ、理論と実践との整合、そして問題の緊要性。
そのすべてを満たす本書は、姉妹編『英語教育原論』(2007)と共に、40年に及ぶ寺島氏の実践と思索の集大成である。
余人になしうる仕事ではない。

「授業は英語で行う」と定めた新高校指導要領は、生徒と教師を疲弊させ、英語教育を瀕死の状態に追い込み、「亡国への道へと導く愚行」(p.238)である。
そう本書は結論づける。

同感だ。
事態の重大さゆえに、すべての英語教育関係者は著者の提起と向き合うべきだろう。

本書は3章から成る。

第1章「英語にとって政治とは何か」では、英語教師が英米偏重を脱し、多文化に開かれた国際理解教育の実践者とならない限り、歪んだ世界像を提供する「加害者」になりかねないと説く。
そのために、教師は言葉と政治に敏感になり、俗説とメディア・コントロールに抗して、「裏に潜む実態を正しく見抜く力を生徒に育てること」が重要である。
オバマ大統領の演説と政策との乖離など、豊富な例証による考察は説得力があり、授業へのヒントに満ちている。

第2章「『英語で授業』は教育に何をもたらすか」と、第3章「新指導要領で言語力は育つのか」では、新高校指導要領と、作成に関与した松本茂氏や菅正隆氏の所論を徹底的に批判している。
膨大な証拠資料にもとづく論理展開は、熟練弁護士の法廷弁論を聴く思いがする。

寺島氏は、高校教員の経験をふまえ、英語による授業では深い内容や高度な知識を扱った教材は不可能になり、学習意欲と学力を低下させ、問題行動とドロップアウトを助長すると指摘する。

さらに、「リーディング」や「ライティング」を撤廃しての「四技能統合型」の科目編成では、各技能が中途半端に終わり、読む力や書く力を著しく低下させると批判する。
同様の方針をとり、生活英語偏重が進む中学校では、深刻な英語力低下が続いている。高校もその二の舞になると言うのである。

「英語で授業」を唱道する文科省や松本氏らは、寺島氏からのディベートに応じ、説明責任を果たす義務があろう。

新指導要領の誤りの根源は、「外国語としての英語」(EFL)の原理で進めるべき政策を、「第二言語としての英語」(ESL)向けの日常会話中心で進めている点にある(p.195)。
財界に服従し、学校現場の実情を無視し続けた結果が、「英語で授業」という歴史的な愚策に行き着いた。

だが、本書出版後に文科省が出した高校指導要領解説では、「日本語を交えて授業を行うことも考えられる」と軌道修正した。
本書の批判は実効力を発揮しつつある。

ただし、文科省は「解説」でこっそり修正するのではなく、前回の指導要領がそうだったように、指導要領本体の早急な訂正を明確にアナウンスすべきである。
「授業は英語で行うことを基本とする」と書いたことは誤りだったと正直に認めるべきである。
そうでないと、学校現場も教科書会社も混乱する。

「日本の風土・教育環境に根ざしたEFLとしての英語教育、その理論と教授法を本格的に研究・開発」(p.201)し、それを実行しうる政治的ヘゲモニーを確立しよう。

本書はそのための希望と確信を与えてくれる。

(大修館『英語教育』2010年3月号掲載の書評に加筆)

《付記》
寺島隆吉氏は、2010年3月末をもって岐阜大学を定年退職された。
氏の益々のご健康と、ご活躍を願ってやまない。
日本の英語教育をまともなものにするためには、寺島氏の力が必要なのだから。