希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

7.11慶應シンポ 英文解釈法の歴史的意義と現代的課題(4)

英文解釈法の歴史的意義と現代的課題(その4)

7月11日に慶應義塾大学三田キャンパスで開催される言語教育シンポジウム「英文解釈法再考:日本人にふさわしい英語学習法を考える」のレジュメの改訂増補版(その4)です。




2-4. 英文解釈における和訳の位置

戦前の英語教育界の代表格だった岡倉由三郎は、「英語教授は此の英文解釈即ちreadingによって行く方が利益が多い」と評価した上で、日本語は「英文」と「原意」というカップルを結び合わせる「媒酌人(なこうど)」であると位置づけています。

また、「英文解釈法に於てはa piece of English textを直読直解させるのが目的であるから、話し方、読み方、作文、文法等を離して教へたり、考へたりするのは間違ひである」と述べている点が注目されます(上井磯吉(1915)「文部省講習会に於ける岡倉教授の『英文解釈法』」『英語青年』1915年9月1日号~同12月15日号まで7回連載)。

岡倉が言うように、本来の英文解釈法は音声面を軽視してはいないのです。

英文解釈についての岡倉の概念は下の図の通りです。
目指すべき理想は、英文を読んで反射的に原意をつかむ「直読直解」です。

イメージ 1

しかし、直読直解のレベルに至るまでは、英文を構文、文法、イディオム、単語などに分析し、日本語に置き換えて理解し、和訳するという意識的な作業を通じて原意に接近します。

この習練を繰り返すことによって、やがて日本語を介さなくても原意をつかめるようになっていきます。

この岡倉の考えを私なりに発展させれば、日本語の役割は、英語のレベルがCumminsの言う日常伝達能力(BICS:Basic Interpersonal Communicative Skills)の守備範囲なのか、高度な内容について読み、書き、論じるための認知学習言語能力(CALP:Cognitive/Academic Language Proficiency)のレベルなのかによって異なります。

“Nice to meet you!”などのBICSレベルならば、日本語の介在は不要でしょう。

しかし、大学入試レベルの英文となれば、自分の持てる日本語力(=思考力)を総動員したCALPの出番です。このレベルでは、英語よりも前に日本語(母語)で論理的に考え、表現する力が身についていないと使い物になりません。

こうしたCALP能力を測るためには、和訳が効果的な選択肢の一つとなります。
和訳を見れば、現時点での英語力とともに日本語力が如実にわかるので、将来の英語力の伸びをある程度予想することができるのです。
学生の答案を長年採点してきて、僕はこの点を確信しています。
逆に、日本語力の貧弱な学生は、英語力も伸びません。

英文和訳には、母語を再認識し、日本語力を鍛え上げ、思考力を磨くという積極的な意義があります。
10代には特に必要な訓練です。
そうして鍛錬された母語力こそが、外国語力を高め、言語力を高めるのです。

また現実的には、日本語と英語との言語的距離が著しく遠い上に、英語の授業時数もわずかですから、直読直解はなおさら困難です。

ところが、2009年に告示された高校の新学習指導要領では「授業は英語で行うことを基本とする」と一律に定めました。

「学習指導要領解説」によれば、「読む活動においては、生徒が、生徒の理解の程度に応じた英語で書かれた文章を多く読み、訳読によらず、概要や要点をとらえるような言語活動をできるだけ多く取り入れていくことが重要である」(強調江利川)として、和訳を否定しています。

これらは重大な誤りです。

BICSレベルでならともかく、高校のCALPレベルの英語を、学力の多様な生徒たちに、40人もの大教室で、週にわずか数時間で教える(学ぶ)方法としては無謀すぎます。

「超エリート育成策」としてなら「理解」できますが、大多数の高校生(先生も)は悲惨な事態になるでしょう。
(もっともこの間の英語教育政策はエリート育成に特化していますから、「落ちこぼし」は確信犯なのかもしれませんが。)

「英語で授業」には、学問的裏付けも、歴史的経験もありません。

英語だけで授業をやった方が、学力が伸びたというデータはまずありません。
新指導要領の基本内容を決めた中央教育審議会外国語専門部会の委員である金谷憲氏も「教師が教室で英語を使えば使うほど、生徒の英語力が伸びるという証拠があるかと言えば、私は寡聞にしてこれといったものを挙げることができない」と述べています(「『オールイングリッシュ絶対主義』を検証する」『英語教育』2004年3月号、大修館書店、9頁)。

ちなみに、「授業は英語で」という方針は、中教審の外国語専門部会でもまともに議論されたことはなかったと、ある専門委員から直接聞きました。
いったい、どこから出た方針なのでしょう。

できる生徒も、教師の英語運用力にさほど期待していません。
保坂芳男氏(立命館大)の詳細な調査によれば、「教師の英語運用能力に関しては、普通科高校生の期待は、それほど高いものではない。(中略)指導力とは相関があるものとはいえないようである」(『英語教師像に関する研究』2008、115頁)とのことです。

歴史的にも、「授業は英語で」は無謀だったことが証明されています。
小篠敏明先生の研究によれば、1922(大正11)年に来日したパーマーは、当初は英語だけによる直接教授法を主張していましたが、やがて和訳や日本語の使用を認めるようになりました(『Harold E. Palmerの英語教授法に関する研究:日本における展開を中心として』1995)。

「英語で授業」は、エリート集団が集まり、英語が週6~7時間もあった戦前の中等学校でさえ不可能でした。

歴史の教訓から学ぶべきです。
子どもたちを実験材料にしてはいけません。

(つづく)