読売新聞7月29日付「学力考 第3部」が小学校外国語活動について、面白い事実を明らかにしている。
見出しは、小学校英語 授業を委託 外国人助手の確保懸命
千葉県柏市の小学校で実際起こった(起こっている)話。
6年生の「英語活動」(指導要領では「外国語活動」だが)で、オーストラリア人のALTと日本人の担任教師とが「言葉を交わさない」という。
互いの言葉が話せないからではない。法律に違反するからだ。
なぜか?
ところが、こうした委託の場合、日本人教師はALTに授業内容等について直接指示できない。
記事は言う。
記事は言う。
「今年4月には、黒板にカードを張ってもらったことなどが『指揮命令』にあたり偽装請負だと、千葉労働局から是正指導を受けてしまった。/ 苦肉の策が、教師と講師が授業中に話さないことだった。」
千葉労働局の指導はまったく正しい。
しかし、記事には書いてないが、ALTはその名の通り、あくまでAssistant(指導助手)のはず。
単独で授業すれば、今度は教員免許法に抵触するおそれがある。
しかし、記事には書いてないが、ALTはその名の通り、あくまでAssistant(指導助手)のはず。
単独で授業すれば、今度は教員免許法に抵触するおそれがある。
しかし、予算難を口実に、原則として学級担任が行うとして必修化だけを決めてしまった。
無理難題である。
無理難題である。
苦肉の策として自治体は独自にALTを雇い、経費節減のため、業者を介した委託方式を多く取り入れている。そこに思わぬ落とし穴があったわけだ。
無茶な政策の歪みが、ここにも現れた。
どうする気だろう。
どうする気だろう。
記事にはそうした歴史も丁寧に書かれている。
コメントしているのは、・・・実は僕です・・・(^_^
コメントしているのは、・・・実は僕です・・・(^_^
「教科書はなく、専門教員もいない小学校の英語。英語教育史が専門の江利川春雄和歌山大学教授は、明治以降の日本の英語教育の歴史を振り返りながら、『同じ過ちを繰り返さないか』と心配する。/ 小学校英語は1886(明治19)年に『高等小学校』が制度化されると都市部を中心に広まり、現在の小5から中2にあたる子どもが週2~3時間、英語を学んだ。ただ、英語に堪能な教員は少なく、次第に廃れていく。(以下略)」
優秀な記者さんで、僕の著書も読まれた上でのたいへん丁寧な取材だったので、かなり正確な文章。
確かに、明治末期には小学校教員の発音の悪さや、指導レベルの不統一などから、小学校英語の廃止論が強まる。こうして、1991(明治44)年の小学校令改正によって外国語科は独立の教科としての地位を失い、「商業科」に併呑されてしまう。
その結果、英語を教える学校は激減した。
(その後、1920~30年代に再び隆盛を迎えるが。)
その結果、英語を教える学校は激減した。
(その後、1920~30年代に再び隆盛を迎えるが。)
偽装請負の疑いが掛けられるので、日本人教師と外国人講師とが教室で口をきかない。
そんな異様な光景を子どもたちに見せつけて、どうやって「積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度」を育てろと言うのだろう。
そんな異様な光景を子どもたちに見せつけて、どうやって「積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度」を育てろと言うのだろう。
教育政策と教育予算の貧困が、またしても悲喜劇を招いた。