昨日に続き,1903(明治36)年に刊行された教育学術研究会編纂『教育辞書 第一冊』(同文館)に掲載された「外国語教授」より,小学校英語教育に関する部分です。
執筆者は,〔東京〕高等師範学校助教授の佐々木吉三郎です。
執筆者は,〔東京〕高等師範学校助教授の佐々木吉三郎です。
さて,小学校英語教育に関する賛否両論を紹介したあとで,佐々木は次のような意見を述べています。
小学校に於ける英語教授は,基礎教授なり,故に発音を正確にし,耳,口,目,手等を円満に働かしめて,些かたりとも不確実なる所あるべからず。一旦悪習慣を附けくる時は,児童は他日正しきものを学ぶ時に当って,先づその誤れる悪習慣を去ることに非常の苦しみを嘗めざるべからざるに至る。故に,小学校に於て,実際教授する教師は,中等教育の英語を持ち得る以上の教師ならざるべからざるなり。
どうです,ハッとしませんか。
当時の英語教育界の重鎮で,小学校英語に反対していた岡倉由三郎も名著『英語教育』(1911)で次のように述べています。
外国語の教授は、母国語の知識の堅固に出来て居ない者には甚だ困難を感ずる(中略)現今の小学校では、専ら国語の知識を正確にし、其運用に熟せしむる様、力を注ぐが妥当であって、それがやがて他日外国語を習得する根底となるのだから、間接に外国語教授の効果を大ならしむ所以である。
教師の点から考へても、外国語の学習を小学校から始めるのは善くない。(中略)初歩の英語教授は最も大切であるから、然るべき教師で無い者が、幼稚なる学生に対して、なまなかの教へ方を行ふならば、後になって矯正をするにも甚しき困難を感ずる。
小学校で英語を教えるのならば,教師は中等学校の英語教師以上の力量がなければならないというのです。入門期の指導,とりわけ音声指導は,それほど難しいのです。
小学校の先生を責めるのではなく,無責任な方針を出した側の責任を問いたいと思います。