希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

英語科教育の「目的論」変遷史(2)

日本における英語科教育の目的論を考える上で、「教養派」の系譜は見逃せません。

その拠点は、日本における英語教育研究の「総本山」と称すべき東京高等師範学校、東京文理科大学、戦後の東京教育大学の英文教室でした。


人脈でいれば、言うまでもなく、岡倉由三郎、福原麟太郎、そして外山滋比古の系列です。

この3氏の主張を読み比べると、「教養派」の主張の進化がわかって、実におもしろいのです。

岡倉由三郎の教育的価値と実用的価値の規定などは、矛盾もはらみ、おいそれとは読み解けない難物ですが、ここではあえて私の解釈などは加えず、オリジナルを提供しましょう。

最後の外山滋比古の主張などは、40年も前とは思えない今日的な輝きを放っています。
いつもながら、鋭くて痛快な語りです。

【資料1】教育的価値と実用的価値 (岡倉由三郎『英語教育』1911)

(教育的価値)
「見聞を広めて固陋の見を打破し、外国に対する偏見を撤すると共に、自国に対する誇大の迷想を除き、人類は世界の各処に、同価の働を為し居ることを知らしむるが如きは、英語の内容、換言すれば風物の記事に依って得らるゝ利益で、又、言語上の材料、即、語句の構造、配置、文の連絡、段落等を究めて、精察、帰納、分類、応用等の機能を錬磨し、且つ従来得たる思想発表の形式即、母国語の他に、更に思想発表の一形式を知り得て、精神作用を敏活強大ならしむる如き、以上は何れも英語の教育的価値である。」

(実用的価値)
「英語の実用的価値は如何と云ふに、英語を媒介として種々の知識感情を摂取することである。換言すれば、欧米の新鮮にして健全な思想の潮流を汲んで、我国民の脳裏に灌ぎ、二者相幇けて一種の活動素を養ふことである。我国が維新以来、偉大なる進歩発達を為せるは、主として外国の新知識、新思想を採用した為で、其手段となり媒介となったものは、外国語なる事は、誰しも首肯する所である。」


【資料2】文化的教養価値説 (福原麟太郎〔岡倉由三郎名義〕『英語教育の目的と価値』1936)

「英語教育の目的は斯様な文化的教養の精神の上にあり、その価値も亦斯様な文化的価値を持つことに、最もその意義があると言はなければならない。」「英語教育は英語教授と区別されなければならない」「教育であるから、英語の実用的な知識を授けるほかに、精神的な食物としても英語を教へる。そして教育である以上、英語の課業を統一する理法はこの精神的な食物を与へること、即ち精神陶冶の側にあるべき筈である。(中略)職業を教へる学校でない限り実用価値よりもこの後者、即ち教養価値が主位に置かれなければならない。(中略)学校は教養の為である、単なる知識の商店ではない。」


【資料3】財界主導の「役に立つ英語」教育は失敗した (外山滋比古『日本語の論理』1973)

「ここ15年間〔1950年代後半以降〕、わが国の学校における外国語教育は、経済先導型であったと言ってよい。それが「役に立つ英語」というスローガンになった。学校の語学はその線に沿って「改善」された。学校側も及ばずながらできるだけの努力はしたのである。その結果はどうであったろうか。/「役に立つ英語」は結局、学校の教室では無理であるということが、ようやくはっきりしてきた。」

「外国語論においては、そういう片言の外国語力というものをすこしも恥じない。専攻する言語の実践的能力がほとんどなしで、しかもすぐれた言語学者が存在し得ることとはやや別の理由で、外国語をほとんど話せないで終わるかもしれない外国語教育が存在してもよろしいし、また存在すべきである。」

(註)それぞれの原典にあたっていただきたいので、あえてページは明記しませんでした。

(つづく)