掲載は5月1日(水)の朝刊(全国版)の予定です。
生徒の学力を測定するには、学んできた教育課程と合致する試験を実施しなければなりません。
まして、大学入試は人生を左右しかねない重要な試験です。
まして、大学入試は人生を左右しかねない重要な試験です。
ところが、TOEFLなどの外部試験は、生徒の教育課程を定めた学習指導要領とはまったく合致していません。
言うまでもなく、TOEFLは米国などの大学・大学院に留学する能力があるかどうかを見るために、米国の機関が作成した難解な試験です。
そのため、TOEFLには1万語水準を超す難解語が頻出しますが、指導要領が求める単語数は中高で3千語です。
これでは、イジメではないでしょうか。
TOEFLなどの外部試験を目標に据えれば、高校も大学も、その対策こそが英語教育の主要メニューになってしまい、学校教育が痩せ衰えてしまいます。
私も大学の都合でTOEICなどの対策講座を担当したことがありましたが、日英比較や異文化理解、言葉の深さや人間の生き方などといった英語教育の本質的な要素が切り捨てられてしまうので、数年でやめました。
世界に通用する英語力を高めるという題目の下に、一般の高校生に教育課程を無視した試験を課す。
それで、本当に学力が付くと思っているのでしょうか。
それで、本当に学力が付くと思っているのでしょうか。
昨日は鳥飼玖美子さん(立教大)とお話しする機会があったのですが、英語の上達に何よりも必要なのは、外部試験のようなものではなく、自分の内側からの強烈な学ぶ意欲だという点で一致しました。
そうした意欲をかき立てるものは、知的好奇心であり、興味であり、教師による「おもしろい!」と思わせる仕掛けです。
外部試験の強制は、そうした「伸びる芽」をつぶしてしまうことも少なくないのです。
経済界や政治家が、英語が使えるグローバル人材を育成したいと焦る気持ちは、わからないわけではありません。
しかし、英語ができる子も苦手な子も、100%の子どもたちの学びを保障するのが学校教育です。
戦前のように、一部のエリートだけに英語力を付ければよいわけではないのです。
戦前のように、一部のエリートだけに英語力を付ければよいわけではないのです。
そうした戦後教育のリアルな現実に即した教育政策を立案しない限り、学校が振り回され、子どもと教員の疲弊が進むばかりです。
影響力の強い与党には、以上をふまえた冷静で実行可能で、何よりも人間的な政策提案を求めます。