希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

「授業は英語で」は時代遅れ

文部科学省は英語の「授業は英語で行うことを基本とする」という方針を、高校に次いで、中学校にも適用させたいという。

「授業は英語で」を一律に強要する方針がどれほど誤りであり危険きわまりない政策であるかは、すでに寺島隆吉先生が『英語教育が亡びるとき:「英語で授業」のイデオロギー』(2009)で完膚なきまでに論証している(ちなみに、この本で名指しされている松本茂氏や文科省などからの著者への反論はないそうだ)。

私自身も、『英語教育のポリティクス:競争から協同へ』(2009)や、仲間と書いた『英語教育、迫り来る破綻』(2013)、および本ブログなどで繰り返し批判してきた。
http://blogs.yahoo.co.jp/gibson_erich_man/33393660.html

「授業は英語で」は、文科省の一部の役人などが中教審外国語専門部会の審議を経ることなく(だから議事録に掲載されていない)学習指導要領に盛り込んでしまった、学問的根拠のない思い込みによる方針である。

学問的根拠がないどころか、「世界の言語教育研究の動向に逆行している」時代遅れのガラパゴス的発想であるとする論考が、この1月に発表された。

週刊金曜日』2014年1月17日号に掲載された久保田竜子先生(University of British Columbia, Canada)の論考「オリンピックと英語教育:反グローバル的改革」である。

そこには以下のように書かれている。

「英語は英語で教える」という方針も、世界の言語教育研究の動向に逆行している。世界の専門家が推奨する指導方法は、母語能力を最大限活用した効率的、創造的な言語活動であり、「英語は英語で」式の指導方法はガラパゴス的発想だ。

*「母語能力を最大限に効率的」(誤記)→「母語能力を最大限活用した効率的」(訂正しました)

久保田先生は、さらに次のように続ける。

文科省の計画は、五輪を控え、英語で「日本文化」を発信するとともに日本人としてのアイデンティティ、とくに伝統文化・近現代史学習を重視するとある。歴史修正主義的内容を目論んでいるのは明らかだ。しかし、安倍晋三首相らの靖国神社参拝で露呈したように、どんなに小手先の英語力を備えたとしても、偏狭な愛国心と歪んだ歴史認識はグローバル社会でまったく通用しない。一連の英語教育改革に見られる外国人=(白人)英語母語話者、理想の英語教育=モノリンガル的教授法、日本人としてのアイデンティティ愛国心と反自虐史観という歪んだ等式は、グローバル人材を育てないどころか、近隣諸国の五輪ボイコットまで引き起こすのではないか。

結論として、次のように主張している。

必要なのは、英語に限らず日本語でも他言語でも偏見なく多様な人々と積極的かつ相手の立場を理解しながら意思疎通することであろう。

久保田竜子先生は、過去ログでも紹介したように、私がもっとも敬愛する言語教育研究者の一人。

たまたまカナダから一時帰国されており、実はこの1月12日に上智大学前の喫茶店で歓談した。
その折りに、「授業は英語で」を強いる政策が世界の学界の常識からどれほど外れているかを熱く語ってくださり、『週刊金曜日』の論考についても教えていただいた。

この論考は久保田先生のウェブサイトにアップされているので、全文を読むことができる。1ページ足らずの短いものなので、ぜひお読みいただきたい。
http://faculty.educ.ubc.ca/kubota/kinyobi2014.pdf

先生はまた、東京新聞2013年12月16日付にも「英語万能論はやめよう」と題した意見を寄稿されてている。
http://faculty.educ.ubc.ca/kubota/tokyoshinbun.pdf

「授業は英語で」という方針が学問的に正しいのであれば、文科省は正々堂々と中教審の外国語専門部会に諮り、他の専門家の意見も広く集めて政策にすればよい。

それもせずに、なぜクーデター的にこのような方針を出すのか。

それによって傷つき疲弊するのは、子どもたちであり教員である。

その責任を、だれが、どう取るのか。