希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

授業の「シナリオ作り」の大切さ

前回の記事にコメントを寄せてくださったtok*se1さんが、「『放送原稿』を持ちつつも,生徒たちの様子を全身で感じながら,他者との関わり,個別の形態を組み合わせて授業をしています」と書いておられました。

この「放送原稿」という言葉が、僕の中で忘れかけていた何かを呼びさましてくれました。

そうです。むかしは自分なりの「放送原稿」(シナリオ)を書いてから、授業に臨んでいたのです。
なのに最近は、バタバタと材料だけ用意して、ほとんどシナリオも準備せずにいきなりライブ。

たしかに授業は一種のライブなのですが、どんな腕利きのミュージシャンでも必ずリハーサルを重ねます。
マイケル・ジャクソンの映画 This Is It が感動を呼ぶのは、リハーサルなのに「ここまでやるか!」と思うほど徹底して準備し、本番に備えているからです。
(ついでに、僕がライブの本番でいつも音をはずすのは、練習不足の一語に尽きます。)

コメント欄でちょっと触れた新聞記事が見つかりましたので、紹介します。
河合塾理事だった丹羽健夫さんへのインタビュー記事で、『朝日新聞』2009年12月26日付に載ったものです。

この中で丹羽さんは、予備校の人気講師を観察してきた結果、共通の要因に気づきます。引用しましょう。

「彼らは共通して授業の準備に大変な時間を費やしている。その年の最初の授業の場合、90分の授業1コマの準備に平均7時間かけていた。どういう準備かというと、準備の半分は、授業のシナリオ作りをする。残り半分の時間は、どういう言葉を使って説明すれば分かりやすいかを考える。つまり、言葉選びです。」

「単なる情報伝達とは違う。その教科の本質的な面白さ、数学なら数式の美しさ、論理の素晴らしさを自分の生の体験を通じて語らなければ、生徒には伝わらない。つまり、自分自身を語らなければならない。教えるという行為の深遠さを講師たちから学び、教員養成の問題は捨ててはおけないと思ったのです。」

「90分の授業1コマの準備に平均7時間かけていた」

そういえば、僕も予備校で専任講師をしていたころは、「7時間」まではいかなくても、入念な授業準備をしていたことを想い出しました。電車の中でもバスの中でも、とにかくいつもテキストとノートを広げていました。なのに、国立に移ってからは・・・

「自分の生の体験を通じて語らなければ、生徒には伝わらない。つまり、自分自身を語らなければならない」

ここですね、授業の醍醐味は。ナラティヴ。そこから信頼関係も生まれてくるのでしょう。
だから、英語で苦労した日本人が英語を教えないとダメなんです。
だから、英語だけで授業をしようなんて浅く考えてはダメなんです。

苦労し、あがき、乗り越えてきた、生身の自分をさらけ出す。
だから、授業というライブは、たとえテクニック的には多少低くても、スタジオ録音版を超えることができるのです。

歌舞伎でも芝居でも、ハイビジョンのクリア映像よりも、一番安い席で見た本物の方が何倍もいいですよね。
本物の授業の魅力は、そこにあるのだと思います。

けれど、それには用意周到なシナリオと、日々の絶え間ない練習がいる。
それをしないと、お客さんは「金かえせ!」となる。
帰りたがっているお客さんを権力で縛り付けようとするから、授業が成立しなくなるのかもしれません。

さて、実はこの丹羽さんの記事のメインは、民主党政権が打ち出した「教員養成6年制が教員の質を下げてしまう」というものでした。

丹羽さんは最後にこう述べています。まっとうな意見でしょう。

養成課程6年制自体はいいことですが、その前にやるべきことがあります。(1)1クラスの子ども数をせめてOECD平均並にするため、教員の数を増やす(2)正規採用を増やし、臨時採用を極力減らす(3)教員を雑務から解放するため、事務スタッフを増員する」

「過重労働や就職の不安などの悪いイメージを払拭することが教員養成系大学の志願者の増加、教員の資質向上につながります。その時に初めて6年制を実施すればいい。いずれもお金がかかることばかりですが、『コンクリートから人へ』を標榜する政権なら、未来への投資と考えてぜひ実現してほしい」

民主党・菅政権が2期目を迎えるいま、あえて引用させてもらいました。