希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

3.13京大シンポ「大学における外国語教育の目的」予稿集(2)

3 月13 日(火)に京都大学人間・環境学研究科地下講義室で開催される国際シンポジウム「大学における外国語教育の目的」の予稿集の続きをお送りします。

藤原三枝子(FUJIWARA Mieko)
甲南大学国際言語文化センター教授。専門は外国語教育学。

「英語さえできればよい」という考えが日本では特に強いと感じられる。大谷泰照氏は、『日本人にとって英語とは何か-異文化理解のあり方を問う-』(2007)のなかで、他国の学生と比較して日本人学生は言語に対して、いわゆる大国でありさえすればその国の言語が望ましいと考える傾向が強いと指摘している。

こうした中で、民族言語的バイタリティーの強い英語とは違って、日本の大学でドイツ語を学ぶ学生たちの学習理由は何であろうか?学習者たちはいったい何を学びたいと思い大学のドイツ語の授業に参加しているのだろうか?こうした疑問に答えるために、2009年4月~5月に、非専門科目としてドイツ語を学ぶ12大学の1年生約1200名を対象として質問紙調査を実施し、潜在的な学習理由や学習内容に対する希望を統計的手法によって分析した。

その結果、ドイツ語学習の理由については5つの要因がとりだされたが、特に強いのは「異文化や言語への憧れや関心」だった。この学習理由は、調査した学生の専門分野が、人文系でも社会系でも、理工系や芸術系でも、医療看護系でも一番の理由であった。

また、学生たちがドイツ語の学習に希望している内容としては「言語知識・読解」、「対人コミュニケーション」、「文化社会事情」の3つの要因があり、特に「対人コミュニケーション」に関するスキルを身につけたいと希望していることが示された。

2007年に日本の中学生・高校生を対象として実施したドイツやドイツ人に関するイメージ調査では、ドイツに対するイメージは、中学1年の段階ですでにかなりステレオタイプ化された形で定着し、高校3年まで大きく多様化する可能性が低いことが示唆された。

従って、コミュニケーション言語能力の養成を目指す授業であっても、CEFRで叙述的知識(savoir)として挙げられている「社会文化的知識」や、技能とノウ・ハウ(savoir-faire)の一つである「異文化間技能」および実存的能力(savoir-être)として挙げられている「新しい社会や文化などに対する開かれた態度や興味」などの育成は、日本の大学におけるドイツ語教育においても重要だと思われる。

山崎直樹
関西大学国語学部/外国語教育学研究科教授 専攻: 中国語教育、中国語学

『外国語学習のめやす2012―高等学校の中国語・韓国語教育からの提言―』とは何か?

一言でいうと
『外国語学習のめやす2012―高等学校の中国語・韓国語教育からの提言―』は一言でいうと、「外国語教育の理念・目標・内容・方法の新たな提案」である。

CEFRと比べて
『めやす』は、その一部に、Can-do statementsを用いた言語能力記述を含んでいるので、よくCEFRとの関連を指摘される。しかし、「日本の学校教育の中で使えるように考案された」「外国語教育は教育の一部であるので、学習者の人間的な成長を支援することを意図している」などの点で、国境を超えた人の移動を前提としたEU市民社会を背景とし、成熟した大人の能力基準として開発されたCEFRとは異なる(ただし、『めやす』にはCEFRの複言語・複文化主義の影響が見てとれる)。

NSと比べて
また、『めやす』は、「学校教育の一環として人間形成を助けるための外国語教育」という視点をもつ米国のNS(National Standards For Foreign Language Education)とは大きな共通点をもつ(というより、NSの影響を強く受けている)が、"21st Century Skills"的な要素を学習目標の大きな柱として取り入れていること、大きな教育理念から始まり、明日、教室ですぐ使えるような具体的な教材のサンプルまでも含んでいることなどが、大きな違いである。

『めやす』のキーコンセプト
『めやす』のキーコンセプトは「3×3+3」という言葉で語ることができる。『めやす』の学習目標は、「言語・文化・グローバル社会の3領域における」(最初の3)、「わかる・できる・つながる力」を身につけることを目標とする(×3)。そして、その際に、(i)学習者の関心・意欲・態度・学習スタイルを踏まえながら、(ii)既習内容や経験、(iii)他教科の内容、教室外の現実社会(人・モノ・情報)と連繋することをめざしている(+3)。外国語教育のスタンダーズというと、「言語能力の指標」ばかりが注目を浴びがちであるが、『めやす』においては、これは、ごく一部でしかないことがおわかりいただけると思う。

高梨 庸雄
弘前大学名誉教授。全国英語教育学会顧問,小学校英語教育学会顧問,日英・英語教育学会顧問

「学習者の主体性を重視したカリキュラムを」

問題提起1:ヨーロッパの英語教育の現状はどうなのか。欧州評議会の勧告はどの程度守られているのか。

EU加盟国の中,13ケ国(European Economic AreaのNorwayを含む)の義務教育学校教諭213名に対するonline調査(LACE 2007)によると,欧州評議会の勧告は,国によって受け止め方に差がある(例:ELPには34ケ国のモデルがある)。

問題提起2:そもそも英語を第一外国語として学ぶ必要があるのか。

国際的コミュニケーションにおける英語の使用頻度を第一義的に考えるならば,日本の外国語教育で英語を第一外国語として学ぶのは妥当であろう。しかし,だからと言って,すべての日本人に英語を第一外国語として要求する必要はない。

問題提起3:学ぶ必要があるとしても、ヨーロッパ人と比べて習得に膨大な時間のかかる英語を、実用目的で、しかも使えるレベルまで養成する必要があるのか。

「実用目的」が示唆する英語がbusiness Englishなのかpractical Englishなのか少し曖昧であるが,practical Englishであれば,それはJim CumminsのBICS (= Basic Interpersonal Communication Skills)とほぼ同じものであり,日常生活レベルでのcommunicationは本来そうあるべきであると考える。もしbusiness Englishを意味するのであれば,日本人すべてにその能力を養成する必要はない。

問題提起4:実際に実用目的で英語を学ぶ必要がある学生数はどれぐらいなのか。

Business Englishを学ぶ必要がある学生数は,その時代の経済状況によって変化するものであるが,今やビジネスは国内で生産して海外に輸出する時代から,海外の店舗で日本人と現地採用社員とが平等の資格で働いて売り上げを伸ばす時代に移行しつつあるので,実用目的で英語を学ぶ必要性は増してくると考える。

問題提起5:日本の英語教育・学習は運用能力の養成に偏っているのではないか。

文部行政の方針では「偏っている」のではなく「重視している」ということになると思うが,現場の指導の実態から見れば,運用能力はまだまだ不十分である。「運用能力」は単なる「英会話」の力ではない。文学や言語学を該当言語で教える場合にもその運用能力は必要である。

問題提起6:そもそも日本の英語教師(学習者)は、英語教育(学習)の目的を自明のこととしていないか。自分の頭で考えたことがあるのか。

学習指導要領を改訂の度ごとに熟読している教師は少ない。1958年度の改訂時に法規に準ずる扱いになってから,教科書は学習指導要領に基づいて編纂されるのであるから,教科書通りに教えておればいいのだ,と考えている教師が圧倒的に多いことは事実である。それだけに教科書編纂者の責任は重くなっている。

(つづく)