希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

日本人と英語の出会いをたどる旅(2)

前回のブログ記事をご覧になった方から,僕のTwitter宛てにうれしいコメントをいただきました。
ご紹介します。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「日本人と英語の出会い」ですと、歴史上最初の日本人と英語の接触では、現大分県臼杵市沖の豊後黒島へお出で頂きたいと思います。
オランダ船リーフデ号に乗船していた三浦按針〔ウィリアム・アダムス〕。1600年のことです。

リーフデ号の船頭に飾られていたエラスムス像(の複製?)は太宰府九州国立博物館の常設展示場にありますので、そちらの方も是非。

西洋との接触で日本史を学び直すと現在の沖縄問題の起源が見えてくるような気がします。
1550年頃の種子島の鉄砲伝来や、1600年のオランダ船リーフデ号の遭難・豊後黒島漂着など16・17世紀、沖縄は琉球王朝であり、「日本」ではない。地理的に考えて西洋が沖縄と先に接触しているはず。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

まさに,おっしゃるとおりですね。

長崎での英語学習の契機となった1808年のフェートン号事件も,ヨーロッパにおけるイギリスの覇権と,オランダの没落を抜きには語れません。

さて,「日本人と英語の出会いをたどる旅」の2日目は,高知県に移動します。

開国の立役者・ジョン万次郎

2日目のお目当ては中浜万次郎(ジョン万次郎)。
中村駅からバスで四国最南端の足摺岬へ。
車中で井伏鱒二の『ジョン万次郎漂流記』(新潮文庫)を読む。

万次郎は1827(文政10)年に現在の土佐清水市中浜の漁師の家に生まれ、14歳のときに嵐のため漂流。
米国の捕鯨船に救助され、米国で教育を受けた。

帰国は1851(嘉永4)年。
ペリー来航2年前という時期が幸いした。
英語を操り、米国に精通する万次郎は逸材で、打ち首どころか、幕府直参の旗本に出世した。

同じ土佐出身の坂本龍馬も、万次郎から伝え聞いた民主主義思想に影響を受けた。
反民主主義的な,どこぞの「船中八策」とは大違いだ。

万次郎が幕末・明治維新の変革期に万次郎が果たした役割は大きい。

その万次郎の巨大な銅像は、太平洋に突き出た足摺岬にそびえている。
眼下には彼を漂流させた運命の黒潮、彼方には想い出の地アメリカがある。

イメージ 1

岬の付け根に建つ「ジョン万ハウス」には、万次郎の生涯や当時の捕鯨・航海に関する資料が展示されている。

万次郎は帰国のときにウェブスター辞書や語学書を持ち帰り、1859(安政6)年には『英米対話捷径』を刊行するなど、英語教育に貢献した。

本場仕込みの英語だけに、たとえばNew Yorkは「ニュウヨゥ」と記されており、彼の発音表記は英米人にも立派に通じるらしい。

幸いにも,このレアな本はいま乾隆著『ジョン万次郎の英会話』(ジェイ・リサーチ出版,2010)で本文が復刻されており,現代語訳に加えて朗読のCDまで付いている。オススメだ。

この原本が出た前年の1858(安政5)年に日米修好通商条約が締結された。
それから150年以上がたったが,アメリカは相変わらず上から目線だ。
黒船ならぬオスプレイが日本を脅かしている。

次は、日米交流史上の知られざる場所へ足を伸ばそう。
本州最南端の和歌山県串本町紀伊大島である。

(つづく)