希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

日本人と英語の出会いをたどる旅(3)

本題に入る前に一言。

Twitterにも書いたのですが,8月22日に野田首相に面会した反原発グループの人の言葉に共感しました。

「この国で眠りこけていた民主主義が再稼働したのかもしれない」。

各種の調査結果が示しているとおり,「原発ゼロ」はいまや最大の民意です。
これはムードに流された一過性のポピュリズムではありません。

この猛暑の中,国民の多くが驚くほどの節電を進め,原発再稼働の必要がまったくなかったことを証明しています。

3.11原発事故は,それほど深刻きわまりないものだと言うこと,政府も専門家も信用できないということを国民は知ってしまったのです。
もう戻れません。

民意に鈍感な野田政権が安易に原発推進政策を転換するとは思えませんが,民衆は着実に外堀を埋め,本丸に迫ろうとしています。

政策転換まで,絶対にあきらめず行動を続けましょう。

さて,本題に入ります。

「日本人と英語の出会いをたどる旅」の最終回です。

日米交流の発祥の地・紀伊大島

和歌山県の白浜に着いたのは夜遅くだったが、全国屈指の名湯が疲れを癒してくれた。

朝風呂は「崎の湯」で決まり。
1,350年前の万葉の昔から知られた海辺の露天風呂で、太平洋の波しぶきがかかる。

湯上がりには、近くのお店の温泉卵がおススメ。
「いでゆ反対タマゴ」として親しまれている。

レトロな店内には「初恋の味 キッスの味」と書いてある。
ぷるるんとした食感で美味しい。5個も平らげた。
(なぜか,何回行っても僕は5個食べる・・・)

幸せな気分でいざ串本へ。
太平洋に臨む枯木灘は絶景だ。

串本駅前にある米国商船レディー・ワシントン号のブロンズ像が出迎えてくれた。

この船こそ、グレイス号とともに1791(寛政3)年に交易を求めて紀伊大島に寄港し、日米交流史の端緒を切り開いた船である。
ペリー来航の62年前のことだ。

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この史実はアメリカでは有名だが、日本の教科書では無視されている。
地方をナメるなとばかりに、紀伊大島には日米修好記念館が建てられ、資料、模型、写真などが展示されている。

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地元の英語教員らはALTと一緒に詳細な英文解説書を作成した。
この交流史話を描いた佐山和夫著『わが名はケンドリック』(講談社)を紹介されたから、帰ったら読んでみよう。

南紀白浜空港から約1時間で羽田空港へ。
次なる目標は東京から南に約200キロ、黒潮の真ん中にある御蔵(みくら)島だ。

1863(文久3)年に米国船ヴァイキング号が御蔵島に漂着し、島民が総出で救助した。
心温まる交流のなかで書かれた400語ほどの『英語単語帳』が,今も島に残されている。
その内容は小林亥一著『文久三年御蔵島英語単語帳』(小学館)で読むことができる。

民衆レベルの日米交流には、どこも黒潮の薫りがする。

竹芝桟橋から御蔵島行きの船の切符を買おうとしたら、校長から呼び出しが来た。

やれやれ。

(完)