希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

格差に抗し,全員を伸ばす英語教育へ(2)

前回の「格差に抗し,全員を伸ばす英語教育へ(1) 」に対しては,Facebookも含めて,多くの人々からのコメントをいただきました。

そのなかに,新自由主義教育政策に関する文献を教えてほしいとの要望がありましたので,まずそれにお応えします。

前回のコメント欄にも書きましたが,私が特に感銘を受けたのは発行順に以下の5冊です。

斎藤貴男『教育改革と新自由主義寺子屋新書,2004

佐貫浩・世取山洋介編『新自由主義教育改革:その理論・実態と対抗軸』大月書店,2008

佐貫浩『学力と新自由主義:「自己責任」から「共に生きる」学力へ』大月書店,2009

○ マイケル・アップル,ジェフ・ウィッティ,長尾彰夫編『批判的教育学と公教育の再生:格差を広げる新自由主義改革を問い直す』明石書店,2009

佐貫浩『危機のなかの教育:新自由主義をこえる』新日本出版社,2012

こうしてみると,この分野では佐貫浩氏の活躍が注目されます。

さて,その佐貫氏の最新刊『危機のなかの教育:新自由主義をこえる』から,新自由主義の具体的な教育政策を論じた部分を紹介しましょう。

「第一に,新自由主義教育政策の一つは,グローバル競争を担う人材要求と国民統合にある。しかも新自由主義が本質的にもっている強権的な管理性,統制性がこれに重なる。そのため国家と教育行政の設定する教育目標を強権的に達成する教育目標・教育価値管理体制の構築が,かつてない緻密さと効率性を伴って進められる。」(33ページ)

こうして,上が命じる目標達成のために,超過勤務を課せられ,膨大な書類を書かされ,しかも給与に格差が広がり全体として減額されるようになったのです。

大阪維新の会の教育政策などは,その極端な例です。

教員には激務を課す一方で,教育予算は削減されます。
教育,福祉,医療などの予算を削減して「小さな政府」を作ること,同時に大企業の勝手気ままを放置することが新自由主義の本質だからです。

いわゆる「ゆとり教育」も,教育への公的支出を削減させることが目的でした。
ですから,教員から「ゆとり」が奪われたのです。

「第二に,新自由主義教育政策のもう一つの目的は,公費の抑制である。具体的にはそれは,今日の時点では,公費の増額なしの効率性の向上策として展開している。そのため,目標管理と一体の教員評価制度,人事考課制度,市場的競争システムとしての学校選択制,学力テストによる学校間競争が組織された。教育費の新たな追加なしに競争のしくみを埋め込み,行政がそのパフォーマンスを目標管理すれば教育改革は達成されるというのが,新自由主義の教育改革理念と方法となった。」(34ページ)

こうして,日本の公的教育費支出割合(GDP費)はOECD加盟国中で最下位という恥ずべき状況なのです。

そのため,教員の間にも非正規雇用が増え,正規教員の加重負担を招いています。

その結果,文部科学省の調査(2010年度)によれば、公立学校教員の1年以上の病気休職者数は8,660人と18年連続で増え、鬱病などの精神性疾患による休職者が病休全体の62%と高止まり状態になっています。

30日以上の病気休暇者を加えると、実際の病休者はその4倍に及ぶという研究もあります。
早期退職者の割合も全退職者の過半数を超えています。

まさに公教育の破壊であり,教員の生命の破壊です。

しかし,新自由主義者たちはエリート私立や国立校,また公立の中高一貫校などを通じてエリート層を選別しますから,極論すれば,公立一般校の疲弊など眼中にはないのです。

恐ろしい思想です。

「第三に,九〇年代に出現した日本の格差社会の土俵の上で,底辺から脱出して安定した階層的地位を得る競争場としての教育制度の整備を求める中流階層の教育要求に焦点を当てた教育改革が,学校選択制,エリート校としての中高一貫校の設置,東京などの激しい高校の格差的多様化などとして進められた。」(35ページ)

「第四に,バブル崩壊からの二〇年間の生存権剥奪をその底辺に分厚く組み込んだ格差雇用構造の広がりのもとで,学校教育は,安定した雇用のイスを獲得するための激しいイス取りゲーム場と化した。そこでの困難や敗北は,社会責任=社会問題としてではなく,学力の自己責任の結果として受容させる意識形成を伴っている。ヨーロッパ諸国で試みられているような丁寧な青年の就労支援ーーそれは労働をとおした社会参加は青年の権利であり,国家や社会はそれを保障する義務があるといいう理念に基づいているーーが整備されることなく,日本の学校は,ますますその「自己責任」メッセージを刷り込む新自由主義への順化のイデオロギー装置として機能している。」(36ページ)

以上のような,「読者を暗い気持ちにさせる」ような記述が続きます。

しかし,著者の意図は「この問題の本質が,単なる不十分さや軽視などではなく,非常に一貫した戦略に沿った体系的教育政策として展開し,そしてそれが日本型新自由主義社会への改造の本質的な一環として意図的に進められてきたことを指摘することにある」としています。

まさに「暗い気持ち」になりそうですが,しかし敵の正体をしっかり認識することが,政策転換の第一歩です。

絶望の先には「希望」しかないのですから。

さて,新自由主義教育政策の特徴をつかんだ上で,政策転換をめざす声を上げ続けると同時に,英語教育において日々実践できる方策を考え出さなければなりません。

私は,それこそが,競争と格差ではなく,協同と平等を理念とする「協同学習」であると思っています。

次回は,英語教育に即して,より具体的に述べましょう。

(つづく)