「格差に抗し,全員を伸ばす英語教育へ」と題したこの連載も,今回でひとまずお開きです。
でも,このテーマに関しては本来は「終わり」はありません。
格差や差別がなくなるまで,闘いに終わりはないからです。
格差や差別がなくなるまで,闘いに終わりはないからです。
競争と格差,1%の幸福と99%の不幸を招く「新自由主義」との闘いは,社会構造の変革にかかわる問題でもあります
またそれは,グローバリズムという国際的な暴力形態ですので,必然的に国際的な連帯が必要になります。
そのことを理解した上で,英語教育の意義を再定義しなければなりません。
日本では明治以来,長らく「英語教授」という言葉が使われてきました。
「英語教育」という言葉が日本に根付いたのは,ほぼ1930年代です。
それは,英語をスキルとして教えるのみではなく,特に英文学などを通じて「英国人のスピリットを教えるなければならない」とか,「英語を通じて精神陶冶に力を尽くす教育」でなければならないとするイデオロギーを含んだ「文化教養説」として定着したのです。
戦後は,戦争への痛切な反省から,英語に限らず,すべての教育の目的が「人格の完成と,平和で民主的な国家及び社会の形成者」を育成することだと定められました(教育基本法第1条)。
英語教育の再定義とは,そうした歴史と基本原則をふまえたものでなければなりません。
しかし,1990年代以降,一段と貪欲さを増した多国籍企業は,新自由主義のイデオロギーと,「グローバル競争」や「メガコンペティション」を口実に,露骨に学校教育に介入し,企業での「即戦力」になる人材を学校教育に求めるようになりました。
それが,本校で繰り返し主張してきた「エリート主義とスキル主義」にもとづく,上位数パーセントのための英語教育(より正しくは「英語スキルアップ」)なのです。
批判的教育学(Critical Education)の言葉を借りれば,それに対する「対抗ヘゲモニー」のひとつが,「協同学習」(collaborative learning),ないし「協同教育」(cooperation in education)だと思っています。
協同学習の詳細に関しては,本ブログでも「英語科における協同学習の原理と実践」と題して,本ブログでも連載してきました。
また,この11月には,全国の仲間と執筆した『協同学習を取り入れた英語授業のすすめ』(仮題)が出版される予定です。
協同学習を簡単に定義すれば,少人数集団で自分と仲間の学びを最大限に高め合い,全員の学力と人間関係力を育て合う教育の原理と方法だといえるでしょう。つまり,単なる「指導技術」ではありません。
協同と平等の原理で,すべての子どもに外国語教育の豊かな学びを保障するために,息の長い取り組みが必要だと考えています。