希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

批判的英語教育学へ

競争と格差の「新自由主義教育政策」に抗する上で,「批判的教育学」(Critical Education)の知見は欠かせない。

この分野では,以前にも紹介したが,マイケル・W・アップル,ジェフ・ウィッティ,長尾彰夫編『批判的教育学と公教育の再生:格差を広げる新自由主義改革を問い直す』(明石書店,2009)が必読書だ。(なお,長尾彰夫氏は大阪教育大学の学長)

著者らは自らの立ち位置を、「序文」で次のように述べている。

現在進行中の『改革』がもたらす最大の問題は,公教育の破壊である。批判的教育学に携わる私たちは,良い教育とは何か,誰の知を教えるのか,その知がどう評価されるのか,教育の目的とは何か,といった一連の問いの意味を再編成しようとする今日的流れに抗する理論的・概念的道具の精緻化を続けていかなければならない。」

「究極的には,民衆的な市民性の概念とは相容れない類の改革を押し戻すことこそが,私たちの使命なのである。」

巻頭論文(第1章)の「批判的教育学の政治,理論,現実」では,執筆者のマイケル・W・アップル(ウィスコンシン大学)とウエイン・アウ(カリフォルニア州立大学)が,「批判的教育学研究・行動の五つの課題」を述べている。

批判的教育学の鮮明かつ先鋭な「宣言」として重要なので,引用しておきたい。

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一般的に,教育における批判的分析(および批判的分析家)が取り組むべき課題として,以下の五つを挙げることができる。

1 それは,「否定的なるものを証言」する(bear witness to negativity)ものでなければならない。すなわち,その最も主要な役割の一つは,教育政策・実践が,それを取り巻くより大きな社会における搾取と支配の関係といかに結びついているかを明らかにすることである。

2 批判的教育研究は,このような批判的分析に取り組むと同時に,諸矛盾を指摘し,どこに行動の可能性があるのかをも示さなければならない。ゆえに,批判的教育研究の目的は,どこで対抗ヘゲモニー的な行動が可能であり,どこでそれが現に進行しているのかを際立たせるような概念的・政治的枠組みに依拠し現状を批判的に検討することである。

3 場合によって,それは,「研究」を再定義することを要する。ここでは,現存するさまざまな不平等の権力関係に抵抗する集団や社会運動,つまり「非改良主義的改革(Non-reformist reforms)」に関わる人々のために「秘書的な役割」に徹することも,研究の定義に含めている。

4 この再定義の過程で,批判的研究はラディカル左派の伝統を守り続ける必要がある。今日,差異や闘争をめぐる「集団的記憶」に対して組織的な攻撃が加えられている。こうした攻撃により,さまざまな支配的物語・支配的諸関係に対抗するうえできわめて価値があることがわかった多様な批判的アプローチの学問的・社会的正当性を維持することがますます困難になっている。こうした状況において,批判的教育学は,ラディカル左派のそうした伝統を守り続け,一新し,さらには必要に応じて,その概念的・実証的・歴史的・政治的な盲点や限界点を批判にさらすことも決定的に重要である。このことは理論的,実践的,歴史的そして政治的伝統を維持することのみならず,まさに重要なことに,それらを発展させ,(支援する意味で)批判することである。それはまた,左派的伝統に不可欠な夢やユートピア的なビジョン,そして「非改良主義的改革」といったものを生かし続けることも意味する。

5 最後に,批判的教育者は,自らの研究が支援する進歩主義的社会運動と協力して行動しなければならないし,また,自らが批判的に分析する右翼的な仮説や政策に対抗するさまざまな運動の中で行動しなければならない。ゆえに,批判的教育研究や批判的教育学という学問に携わるということは,グラムシのいう「有機的知識人」になることを必然とする。ナンシー・フレーザーのいう「再配分の政治」と「承認の政治」をめぐる運動に積極的に参加し,私たちの専門知をこうした運動に捧げなければならない。研究者としての知的努力も重要だが,ブルデューの言葉にもあるように,「世界の将来が懸かっている闘争を目前に,それを傍観し中立・無関心を装うことはできないのである」。
(11-12ページ,強調は原著)

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アップルらの言葉は,脳天を突き抜けるような激辛の,しかし,得も言えぬ芳香に満ちたご馳走のように,私の目には映る。

現在猛威をふるっている新自由主義新保守主義は,1%の特権階級の利益のために,99%の民衆ための「公教育を破壊する」。

最大の犠牲は,子どもたちである。

そして、私たちは99%である。

であれば,時代は,「批判的英語教育学」の確立とそのネットワーク化を求めている。

無批判で,甘ったるく,口当たりがよいだけの「英語教育論」に,つき合っている暇はない。