希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

パウロ・フレイレの「希望」論

本ブログ「希望の英語教育へ」は、2009年9月1日が誕生日ですから、やっと3歳になったところです。

可愛い盛りとも言えますが、要するに未熟です。

でも、未熟であることは、今後に豊かな可能性を秘めているということです。
よね。(^_^;)

「希望」というのは、いい言葉です。

人は、希望があれば生きていけます。

絶望の先には、希望しかありませんから。

僕は佐々木希(のぞみ)さんの顔も好きですが、「希」の字も大好きです。

批判的教育学を学ぶために、久しぶりにパウルフレイレの『被抑圧者の教育学』を読み直しました。
最近出た新訳版ではなく、小沢有作さんらが訳した亜紀書房の1979年版です。

「希望」に言及した部分をご紹介しましょう。

「対話は希望がなければ存在しえない。希望は、人間が未完成であるからこそ生まれるのである。そこから人間は、たえまない探求、すなわち他者との親交においてのみ遂行しうる探求へと出立する。希望の喪失は、一種の沈黙、世界の否定、世界からの逃避である。不正な秩序の産物たる非人間化は、絶望ではなく希望にとっての根拠である。不正によって否定された人間性のあくなき追求が、そこから始まる。しかし希望は、腕をこまねいて待つことのなかにあるのではない。闘うかぎりにおいて、私は希望につき動かされる。そして希望を持って闘うならば、私は待つことができる。」(102-103ページ)

この直後に、パウルフレイレは次にように述べています。

「真の対話は、批判的思考を含まないかぎり存在しえない。」

パウロフレイレには『希望の教育学』という晩年の名著もあります。

その紹介文は、なかなかよくできています。

「いまある状態が、すべてではない。ものごとを変える、変えることができる、という意志と希望を失ったそのときに、教育は、被教育者にたいする非人間化の、抑圧と馴化の行為の手段になっていく。いまある所与の状態を引き受け、それを直視しつつ、誠実かつ老獪に「可能な夢」を模索する教育思想家フレイレの晩年の主著。」

かくして、僕はこのブログを「希望の英語教育へ」と名づけたのでした。