希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

高校英語教師からの手紙(3)

英語が苦手な生徒が集まる高校にお勤めの若い英語教師からのお便り。
第3回目(最終回)です。
個人が特定されかねない情報以外は、原文のままです。

ぜひ、みなさまのご意見・ご感想をお寄せください。

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(引用開始)

④ 最後に

長くなってしまいましたが、私の持ち場で今、どのようなことが起きているか、英語教員の育成に携わっていらっしゃる江利川先生に、少しでも理解していただければと思います。

もちろん、私はすべての現場を知っているわけではありません。体験したことは、あくまでも一例に過ぎません。

しかし、昨年の**月に行われた研修で、一部の学校を除き、どこも似たような状況にあることが分かりました。
他の先生方(高等学校・英語)も、ほとんど同じような持ち場を抱えていて、中学校レベルの英語力もない生徒を、どう指導していけばいいのか悩んでいる状況です。

教育委員会の人たちの前では、はっきりとは言えなかったものの、やはり今の行政の指針には賛同できない旨のことを話していました。

ある先生は「生徒の大半は英語の文章を読めないので、英語の文章には必ず主語と動詞があることを4月からずっと繰り返し伝え続けてきた。最近になってようやくそのことが定着し始めてきた。なぜそれを、All Englishではないから、コミュニケーションじゃないという理由だけで、否定されなければならないのか。」と話していました。

別の先生は「うちは定時制で、中学校ですでに学校についていけなくなった人が大半。アルファベットも書けなければ、基本的なことは何一つ身に付いていない。授業中話しかけても返事すらできない人なんてのも珍しくない。そんな人たち相手にどうやってコミュニケーションスタイルの授業をやれというのか」と話していました。

さらに別の先生は「2日目の授業観察は確かに参考になる部分もあったが、授業観察させるのであれば、中の上くらいの学校よりも、むしろ『指導困難校』と呼ばれる学校での授業を見学させて欲しい。」と語っていました(この先生の言う通り、研修2日目に授業観察を行った学校は、学力レベルで言えば、最低でも中の上には入ります)。

自分の経緯を振り返ったり、他の先生の話を聞いたりして思うのは、今の行政(昔からかもしれませんが)には、英語嫌いの人たちや基礎力のない人たちを、どうやって底上げしていこうかという議論や視点が全くないことです。

私の勤務校に来校した指導主事も同じでした。

私は、自分の授業を批判されたから不満なのではありません。あまり褒めてもらえなかったことに不服な訳でもありません。
異議があるのは、中学校レベルの内容も身に付いていないという現状には目をつぶり、あるいは知っていてもその打開策を講じようとはせず、ただひたすら文部科学省教育委員会の決めたことを実行することしか考えない姿勢です。

授業スタイルについても、「文法訳読が正しくてコミュニケーションスタイルの授業が間違っている」などという、二元論的なことを言っているのではありません。
「うちはコミュニケーションスタイルの授業が性に合っている」という学校があれば、全然異論はありませんし、うまくいっているところについて、とやかく言う気もありません。

今受け持っているクラスについても、状況が変わっていけば、授業のスタイルもそれに応じたやり方をしていく予定です。
こんなことは、行政側から言われなくても実行することです。

最大の問題は、繰り返しになりますが、なぜ学校ごとやクラスごとに合ったやり方をさせてくれないのかということです。

基礎・基本が出来ていなければ、基礎・基本から教えるのが然るべき指導というものでしょう。
基礎・基本が出来ていないのに「楽しむことが大事だから、ひたすら試合をさせろ」などという指導者がいたら、それが良い指導と言えるでしょうか。
そしてこのような現状を、単に「時代の流れ」だけで片付けて良いものでしょうか?

青臭いことを言いますが、私は指導法に正解や王道はないと思っています。
学校の数だけ、クラスの数だけ、あるいは生徒の数だけあるものだと思っています。
むろん「だから何をやっても良い」ということではありませんが、指導法は常に、生徒の反応や様子を見ながら改善を図っていくものだと思ってきました。

しかし今の英語教育行政は、あまりにも1つの指導法を押し進めようとしているような気がしてなりません。
学習指導要領に「個性を活かす教育」や「発達段階」を謳っておきながら、求める指導法が画一的になってはいないでしょうか?

私は声を大にして行政の人たちに言いたいです。

あなたは目の前に「先生、中1レベルの基礎から教えて下さい。苦手を克服したいんです」という生徒がいたら、それに全力で応えようと思いませんか? 
応えようとしたときに真っ先に目を向けるのは、行政の方針ですか?

そして「文部科学省の方針だから」、「教育委員会が決めたことだから」、「今はそういう時代だから」という理由だけで、それまで積み上げてきた自分の指導を批判されたら、不条理だと思いませんか?

自分の受け持つ生徒の実情をほとんど知らなければ、それを知ろうともしないもしない行政の人から、自分の指導法について上から目線でとやかく言われたら、進んで言うことに従う気になれますか?
また、そういう人の言うことに従うことが、正しいことだと思いますか?

良い授業かどうかを決める基準が、生徒の反応や様子よりも、行政の方針に合っているかどうかになることが、果たして生徒のためになると本当に思いますか?
それを判断基準にする指導者は有能だと思いますか?

それとも、行政の方針通りの授業を進めれば、必ず生徒は良い反応を示して上達するという保証があるのでしょうか?

お忙しいところ、最後まで読んでいただき、誠にありがとうございました。

(終わり)

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読み終えて、みなさんは何をお感じでしょう。

2013年6月に閣議決定された「第2期教育振興基本計画」にも、文部科学省が同年12月に発表した「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」にも、書かれてあるのは「グローバル人材」という名の英語エリート育成のみ。

「スーパーグローバルハイスクール」には、1校につき年間2,900万円の予算を配分するとしています。
(*実際には、1校につき年1,600万円を上限に補助:朝日新聞2014.3.29)

他方で、英語が苦手な生徒をどう支援するかについては、1行も書かれていません。

中学・高校の英語教育は、英語が苦手な子も含む全員を育てる「国民教育」です。
ところが、その視点がすっぽり抜け落ちているのです。

そのことが、どれほど生徒と教師を苦しめ、学校現場を疲弊させているか。
その一端を、3回に及んだ「高校英語教師からの手紙」は生々しく証言してくれました。

教育行政に携わるみなさん、指導主事さん、本当にこれでいいのですか?

こうした歪んだ英語教育政策について、私は『英語教育のポリティクス:競争から協同へ』(2009)や、3人の仲間と緊急出版した『英語教育、迫り来る破綻』(2013)で批判してきました。
今後も、『学校英語教育は何のため?』(6月に仲間と刊行予定)などで、引き続き厳しく問いただしていきたいと思います。

みなさん、ぜひ声を上げ続けましょう。