希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

日本の外国語教育政策史点描(1) 臨時教育審議会(その1)

「本書を書こうと考えた動機は、相次ぐ英語教育改革である」

これは鳥飼玖美子さんから贈られた新著『英語教育論争から考える』みすず書房)の冒頭の一文である。

鳥飼さんは、「過去の論争や改革をもとに議論を進めるということが行われた形跡が全くない」まま、政府が「慢性改革病」や「抜本的改革症候群」とでも言うべき英語教育改革を進め、学校現場を疲弊させている状況に強い危惧と怒りを抱いて、この新著を執筆された。

タイトルの「英語教育論争」とは、「使える英語」をめざす平泉渉参議院議員による「平泉試案」(1974)をめぐる、渡部昇一上智大学教授との歴史的な論争のことである。

この論争は、1975年に『英語教育大論争』として文言春秋社から発売され、1995年には文春文庫に収められている。

「過去の論争や改革をもとに議論を進めるということが行われた形跡が全くない」ままの「慢性改革病」。

鳥飼さんのこの言葉は、私の問題意識とまったく同じである。

英語教育史の研究者である私が、2003年頃から現代英語教育政策の批判を続けているのは、まさにこの問題意識に突き動かされたからである。

こうして私たちは「4人組」を結成し、『英語教育、迫り来る破綻』(2003)や『学校英語教育は何のため?』(2014)を共同執筆してきた。

しかし、いずれもごく近年の英語教育政策への緊急の異議申立であり、歴史にさかのぼっての根源的な問いかけをしているわけではない。

であるから、やはり過去にまでさかのぼっての本格的な「日本の外国語教育政策史」の研究がいるのではないか。強くそう思う。

さて、前置きが長くなったが、以上の思いから、日本における外国語教育政策の歴史をたどってみたい。

実は、そのために古代からの外国語教育政策史を調べているのだが、7世紀から書き始めたら、いつ現代にたどり着くかわからない。

なので、ブログ記事であることを念頭に、時代の流れはあまり意識せず、気ままに「点描」して行きたいと思う。

では、何を連載の第1回とするか。

現代への影響力の大きさからすれば、やはり、これだ。

1980年代の「臨時教育審議会」である。

臨時教育審議会の英語教育政策(1980年代) その1

臨時教育審議会(会長・岡本道雄元京都大学総長)は、1984(昭和59)年8月8日に国会で可決された臨時教育審議会設置法に基づいて総理府に設置された。

中曽根康弘内閣総理大臣の直属の諮問機関であるから、文部大臣の諮問機関である中央教育審議会中教審)よりも上位に位置づけられる。

「不当な支配」の排除を明記した教育基本法の下で、戦後の教育行政は政治的中立性を強く求められてきた。
その意味では、「戦後政治の総決算」を掲げる首相に直属する教育諮問機関が発足したこと自体が、歴史的な転換を示すものだった。

この臨教審の設置を契機に、いわゆる官邸主導ないし政治主導の教育政策が展開されるようになり、その後の教育行政にきわめて大きな影響を与えた。

臨教審は分野ごとに「21世紀を展望した教育の在り方」(第一部会)、「社会の教育諸機能の活性化」(第二部会)、「初等中等教育の改革」(第三部会)、「高等教育の改革」(第四部会)の4つの部会から構成され、1987年までの3年間に4次にわたる答申を提出した。

それらに盛り込まれ改革案のうち、①伝統文化や日本人としての自覚の強調、②6年制中等学校の設置、③国公私立大学入試の共通テスト化、④初任者研修制度の創設、⑤不適格教員の排除、⑥教科書検定制度の強化、⑦大学教員への任期制導入、⑧大学入学資格・時期の弾力化、⑨学習指導要領の大綱化、⑩文部省の機構改革などは、その後いずれも実施されている。

また、臨時教育審議会では学校教育を規制緩和・市場原理・競争にゆだねる新自由主義的な教育政策が本格的に議論され始め、新保守主義を伴って、後の教育政策に大きな影響力を発揮することになる。

外国語教育改革に関する答申は、「第二次答申」(1986年4月23日)、「第三次答申」(1987年4月1日)、「第四次(最終)答申」(1987年8月7日)に盛り込まれている 。

次回は、その内容を検討してみよう。

(つづく)