希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

意見表明が容易な社会を望む

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本日のメルマガに面白いコラムが載っていました。
「転送歓迎」だということなので、掲載します。

意見表明が容易な社会を望む
     異なる意見を尊重しない社会ほど怖いものはない東京新聞より)

                         弁護士 小町谷 育子

 東京新聞には、さまざまなコラムがある。他紙と比較すると、コラムの書き手のバックグラウンドの多様さと数の多さはぬきんでているように思う。さながら、新聞上の伝言版である。

 特に楽しみにしているのは、杉良太郎さんの「紙つぶて」だ。(略)過去に芸能界から政治家に転身した人はいる。しかし、芸能活動をしながら政治的な意見を発信している人はほとんど見かけない。太田光さんや山本太郎さんぐらいだろう。ハリウッド俳優が特定政党の支援を公然と表明しているのとは大きな違いがあるようだ。(略)

 芸能界だけではなく、日本の社会全体が政治的な意見の表明をどこか歓迎していないようだ。その最たる例が、公務員の政治的な活動の禁止ではないか。休日に公務員が職務とは無関係に、政党関係のビラを配布したからといって、市民が公務の中立性、公平性を真剣に疑うことがあるのだろうか。

 裁判官が法廷の外で政治的な集会に参加したり、メディアで意見を述べたりしても、それだけで判決が中立的でなくなるはずがない。役所に苦情が来たり、裁判所がおよそ事案に関連性のない批判にさらされたりするのは、言葉は悪いが、面倒臭いことだし、公務員の社会では批判されること自体が問題なのかもしれない。

 外国と比べて、日本では人権が保障されているといわれるのは誤りではないが、大多数の人と同じ行動を取っている限りにおいて保障されているにすぎない。だから私たちは権利が侵害されていると感じないのだ。異なる意見を尊重しない社会、意見に対する批判を恐れて自主的に規制する社会ほど怖いものは
ない。(略)個性を殺した画一性、協調性を重んじる日本社会の息苦しさがあるように思う。

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考えさせられるコラムだ。

「芸能活動をしながら政治的な意見を発信しているひとはほとんど見かけない」

確かに、ミュージシャンでも、忌野清志郎亡きあと、積極的に発信しているのは斉藤和義くらいではないか。

英語教育関係者でも、公然と政治的な発言をする人は多くない。
しかし、政治や政策を切り離した「教育」などありえない。

たとえば、高校の新指導要領に盛り込まれた「授業は英語で行うことを基本とする」などは、紛れもない政策である。

中教審の外国語専門部会でも議論されず、議事録にも載っておらず、何らの学問的根拠も実証データもないこんな無謀な方針が「政策」として押し付けられる。

これは一種の暴力である。

英語教育関係者は、恐れることなく「政治的な意見を発信」していかなければならない。

そのためにも、明治以降の外国語教育政策史をまとめないといけないのだが。
これも今年の課題。

そうそう、たんぽぽ舎のメルマガには冒頭にいつも原発稼働情報が載っている。

現在、日本の稼働している原発は54基中6基、全原発停止へあと一歩

これも「政治的な意見を発信」した結果だ。

がんばろう!