英語教育改革をめぐっては腹の立つニュースが多い。
しかし、少ないながら、胸のすくような記事やコラムもある。
本日2月20日の朝日新聞(大阪本社版)の「私の視点」に掲載された「英語教育改革 『使える人材』育成に疑問」は秀逸だ。
本日僕は大阪の中学校を訪問し、英語の授業を拝見する日なのだが、このコラムを拝読して、出発前に大急ぎで紹介したくなった。
筆者は、都立高校の教員をされている宮下 洋先生。
残念ながら面識はないが、ぜひお目にかかりたい先生だ。
残念ながら面識はないが、ぜひお目にかかりたい先生だ。
宮下先生は、まず英語教育改革の現状を端的に分析される。
「国による英語教育改革が加速している。対象は小学校から大学に及び、現場は矢継ぎ早に下りてくる政策への対応に追われている。
個々の政策の是非はさておく。私が危惧するのは、公教育における改革が英語の「功利的利用」、つまり経済効果や利益を中心にしているように見えることだ。
従来の「読み書き」中心から「コミュニケーション能力」重視へとかじを切る。これは日本だけでなく、アジア諸国を含め非英語圏に共通する動きだ。新自由主義が社会に浸透する中、経済界からの要請を受け、国際競争力の強化を目的として「英語が使える人材」を育成しようとしている。
英語教育の一つのあり方としてはよい。だが子どもたちにとっての外国語学習とは本来、もっと幅の広い、豊かなものであるはずだ。ここに落とし穴はないか。」
このように、冒頭で「新自由主義が社会に浸透する中、経済界からの要請を受け、国際競争力の強化を目的として」と、英語教育改革の本質的な狙いを見事に定式化されている。
その上で、その弊害を次のように指摘する。
「世界の言語教育関連の学術誌には、各国における英語の功利的利用の弊害が次々と報告されている。例えば、言語政策が生徒の英語運用能力への意識を支配しようとしている、教育がサービス化・商品化している、文化的な多様性が失われている、母語の運用能力が低下している、英語の能力によって階層化し格差が広がっている、逆に英語学習への動機付けが低下している……。学校現場に立つ者であれば、実感として思い当たるところがあるにちがいない。
日本にもこうした警鐘を鳴らす研究者はいる。しかしそれが政策担当者や英語教員の中で広く共有されているとは言えない。英語教育に限らず、我々は多様な視点を持つことへの柔軟性を失っているのかもしれない。」
思わず、「まったっくその通り!」と心の中で叫んだ。
「ああ、同じことを考えている人がいたんだ!」という嬉しさ。
旧知の友人に会ったような気持ちがした。
僕自身も「警鐘を鳴らす研究者」の一人でありたいと願い、仲間と警鐘を鳴らず本や論文を書き、シンポジウムや勉強会を開いてきた。
(突然ですが、次回の「4人組講演会」(鳥飼・大津・斎藤・江利川)は、2015年6月13日、名古屋の中京大学の予定です。いよいよ「東海の陣」!)
(突然ですが、次回の「4人組講演会」(鳥飼・大津・斎藤・江利川)は、2015年6月13日、名古屋の中京大学の予定です。いよいよ「東海の陣」!)
しかし、まだまだ少数派の力不足ゆえ、「それが政策担当者や英語教員の中で広く共有されているとは言えない」のである。
だからこそ、今回、宮下先生という高校の第一線で教えておられる先生が、実名と顔写真入りで、このようなオピニオンを発表されたことに、その見識と勇気に、心から敬意を表したい。
さて、続けて先生は、何が問題かを鋭く指摘される。
「英語教育に課題があるのは間違いない。だが我々が必要とするのは画一的ではない、厚みと深みを持った政策と教育実践のはずだ。
課題の一つは「コミュニケーション能力」の再定義だ。表面的な「会話」にとどまってはならない。本来は、論理的思考や協働の精神、異文化理解の態度など、多くの要素が含まれる。言語面に限っても「読み書き」に対立するものではない、多層的な考え方だ。そこを誤らなければ、学校や生徒の状況に応じた、広がりのある教育実践が展開されるだろう。」
そう、まず大事な課題の一つは、「コミュニケーション能力」の再定義。
「表面的な<会話>にとどまってはならない」のである。
「表面的な<会話>にとどまってはならない」のである。
ここが、問題の核心の一つだろう。
言葉やコミュニケーションとは、はるかに多様で深い。
言葉やコミュニケーションとは、はるかに多様で深い。
その中でも、「論理的思考や協働の精神、異文化理解の態度」などを抽出されている点は、まさに我が意を得たり!
言葉の教育は、人間の思考力と感性を育む教育であり、本質的に人格教育なのである。
最後は次のように締めくくる。
「国や自治体が公に使う「グローバル人材」という言葉は、英語の功利的利用を象徴している。教育の場で「人材」という言葉を使うことに違和感が持たれなくなっている。現行の学習指導要領では児童・生徒を指して「人材」という言葉は使われていないが、次の改訂で盛り込まれるのだろうか。学校は「人間」を育てる場であるべきなのだが。」
そう。
公教育(少なくとも小学校、中学校、高校)は「人材」を育成する場ではなく、「人間」を育成する場なのだ。
公教育(少なくとも小学校、中学校、高校)は「人材」を育成する場ではなく、「人間」を育成する場なのだ。
これを勝手に「教育は、人材の供給を目指し、巨大で多国籍的な企業利潤の形成者」を育成する、などとねじ曲げてはならないのである。
しかし、政府と財界は後者の道を突き進んでいる。
たとえば、安倍首相が議長を務める産業競争力会議の「成長戦略(素案)」(2014.6.17 )では、「④世界と戦える人材を育てる」という項目の中に、以下のような方針を盛り込んでいる。
「(ⅰ)初等中等教育段階からの英語教育を強化する。このため、小学校における英語教育実施学年の早期化、教科化、指導体制のあり方等や、中学校における英語による英語授業実施について検討する。
(ⅱ)グローバル化に対応した教育を行い、高校段階で世界と戦える人材を育てるため、「スーパー・グローバル・ハイスクール」を創設。」
(ⅱ)グローバル化に対応した教育を行い、高校段階で世界と戦える人材を育てるため、「スーパー・グローバル・ハイスクール」を創設。」
このように、小学校で英語を早期化・教科化するのも、中学校の英語授業を英語で行わせるのも、高校でのスーパー・グローバル・ハイスクールの創設も、すべては「世界と戦える人材を育てる」ためなのである。
これでは、「戦争のできる国づくり」の一翼を英語教育に担わせるということではないか。
ぜひ皆さんと、そして宮下洋先生と意見交換し、「政策担当者や英語教員の中で広く共有され」ていくことを願ってやまない。
(広く意見を共有するため、この記事は「転載可」としました。)