希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

「学力低下」と協同学習(内田樹氏から学ぶ)

元旦は昼間からお屠蘇をいただき、夜もコタツで美酒とご馳走。

2日になって、さすがに本が読みたくなりました。

昨年末から読み直している内田樹先生の『街場の教育論』(ミシマ社、2008)に自然と手が伸びました。

深い思索にもとづいた珠玉の言葉が書かれていて、お屠蘇に浸った脳髄をガツンと覚醒させてくれます。

第5講 コミュニケーションの教育

内田先生は「専門家」の定義を問います。
皆さんなら、どう回答されるでしょうか。

「『ナヴァロンの要塞』でも『スパイ大作戦』でも、「チームで仕事をする」話では、爆弾の専門家とか、コンピュータの専門家とか、外国語の専門家とか、格闘技の専門家とか、変装の専門家とか、色仕掛けの専門家とか、そういうさまざまな専門家が出てきます。彼らがそれぞれの特技を持ち寄って、そのコラボレーションを通じて、単独では成し遂げられないほどの大事業が実現される。」'''

他の専門家とコラボレートできること。それが専門家の定義です。」(92ページ)

これを読んだとき、僕は唸ってしまいました。

「専門家」というと、まさにスペシャリストで、小さなタコツボ内でワザを極めた孤高の職人のようなイメージがありますが、実はそうではないのです。

「他の専門家とコラボレートできること。それが専門家の定義です。」
すばらしい!

近年の学生の「学力低下」論についても、鋭い考察を述べています。

「別に学力が落ちたわけではないのです。専門的な知識や技術はそれなりに身についた。ただ、それが『何のためのものか』を考える機会が与えられなかったので、その知識や技術を『どう使っていいか』がわからない。他の専門家とどんなふうにネットワークを組んで、どんな新しいものを生み出せるか、という『コミュニケーション』する仕方を知らない。」(103ページ)

日本の英語教育でも、1980年代後半ごろから「コミュニケーション重視」が叫ばれるようになりました。

しかし、肝心の「コミュニケーション」のとらえ方がきわめて狭く貧弱なものでした。
たとえば、2012年度から実施されている中学校学習指導要領(外国語)では、「聞くこと,話すこと,読むこと,書くことなどのコミュニケーション能力」として、事実上、4技能のスキルに解消しています。

そうではありません。
コミュニケーションとは、目的を共有化した上で、その目的に向かって他者と協同し、ネットワークを組織して、新しいものを生み出すための創造的な、ワクワクするような活動なのです。

ですから、コミュニケーション能力の発達のためには、4技能というごく狭い「学力」にとどまらず、高い目標に向かって「学びのネットワーク」を構成できる人間関係力を育むことが必要不可欠なのです。

他方、4技能のスキル競争には、「あいつはオレより点が低い」とか、「いつも低い点だから、やってもしょうがない」といった、「学びのネットワーク」を寸断する副作用があります。

再び内田先生の考察に戻ります。

「競争を強化しても学力は上がりません。少なくとも、今の日本のように閉じられた状況、限られたメンバーの間での『ラット・レース』で優劣を決めている限り、学力は上がりません。下がり続けます。」

「学力を上げるためには、自分たちのいる場所とは違う場所、『外』とのかかわりが必須です。『荒野の七人』では山賊が、『大脱走』ではドイツ軍の看守が、主人公たちの活動を阻んでいます。だからこそ、『自分にできないこと』の検出に真剣になるのです。その欠陥を埋めておかないと、『外』を相手にしたプロジェクト(山賊退治、捕虜収容所からの脱走)は成功しないからです。ですから、当然、『自分にできないこと』を『自分に代わって引き受けてくれる仲間』に対しては深い敬意が示され、できる限りの支援を行うことが必須になります。」

「本来、子どもたちに最初に教えるばきなのは、『このこと』のはずです。どうやって助け合うか、どうやって支援し合うか、どうやって一人では決して達成できないような大きな仕事を共同的に成し遂げるか。そのために必要な人間的能力を育てることに教育資源はまず集中されるべきでしょう。」(108-108ページ)

以上、内田樹先生の『街場の教育論』からでした。

読むだけでも感動すのですが、こうしてキーを打ちながら精読すると、ますます染みてきますね。

英語授業でも、いや、英語授業でこそ、協同学習を!

そう再確認した新年です。