希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

新学習指導要領にどう対処するか(3)

3日間におよぶ教育のつどい2010(教研全国集会)から戻りました。

昼も夜も全国の英語教員の報告を聞き、語らい、飲み、とても充実した3日間でした。
いつもながら、困難な状況の中で創意工夫に満ちた献身的な英語教育実践をされている人たちの話を聞くことができ、最高の充電となりました。

また、中学生のころ深夜放送のラジオを通じてあこがれていた落合恵子の講演を聴くことができ、彼女の筋の通った反差別と反戦平和の生き方にも強く惹かれました。

ああ、充実!

で、カラダは疲れているのですが、高校新指導要領の問題点について考えてみましょう。

学校の実情に背を向けた高校新指導要領

1947年の新制発足とともに生まれた文部省の学習指導要領とは、本来は「試案」であり、教師たちを励まし、サポートするものでした。

それから62年後の2009年に出された高校の新指導要領は、そうした理念からどれほどかけ離れたものになり果てたことでしょう。

この3日間、多くの高校英語教員と話をしました。
そのほぼ全員が、新指導要領に怒り、あきれ果てていました。
「まともに相手にする気もしない」という印象でした。

英語教育史を学ぶ私自身、「史上最悪の指導要領」だと思っています。

まず科目の名称と内容が大幅に変更されました。

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やたら「コミュニケーション」が冠せられました。
現行指導要領にある「実践的コミュニケーション」の「実践的」が無意味だとして削除されたことはすでに述べました。
「実践的」でないコミュニケーションなどないという理由からです。

では、本来的な意味で「コミュニケーション」を伴わない「英語」などあるのでしょうか。
おそらくは、偏狭な「オーラルを中心とした使える英語」の記号として、政治的意味を込めて「コミュニケーション」を冠したのでしょうが、長いだけで学問的な意味はありません。

EFLとしての外国語教育に不可欠な「リーディング」と「ライティング」を明治以来始めて廃止してしまったことも、歴史的な過誤として記録されることでしょう。
1978年の指導要領で英文法の検定教科書を廃止したように。

新指導要領では「四技能の統合」がしきりに強調されていますが、これは危険です。
野球にたとえれば、試合さえしていれば強くなる、という発想と同じです。

強くなるためには、筋トレや走り込みなど、基礎的で地味なトレーニングが必要不可欠です。
それと同じように、外国語としての英語の習得には、コツコツ単語を覚え、高校レベルでは文法を集中的・体系的にマスターし、50分の授業をすべて読解や作文に当てる局面も必要です。

もちろん四技能が統合される局面も必要ですが、それを前面に出し過ぎるのは無謀でしょう。

最大の誤りは、例の「授業は英語で行う」という指導方針を一律に盛り込んだことです。

しかも、これほど重大な方針転換を、英語教育の専門家集団である中教審外国語専門部会の合意を経ずに決定してしまったことです(私は複数の委員からそう聞いています)。

「そうではない」と言うなら、文科省はこの方針の決定プロセスを公開すべきです。
公開されている議事録には、「授業は英語で」という方針についてはまったく言及されていません
これは専門部会委員を侮辱する行為です。
委員の先生たちも大いに怒り、真相を公表すべきではないでしょうか。

こんないいかげんな決定プロセスで、学問的・実践的に誤った方針を決めたためか、指導要領の各部と、指導要領解説とが相互に矛盾しています。

寺島隆吉氏が『英語教育が亡びるとき』(2009)で指摘しているように、
(1) 「第2款 各科目の内容」では「・・・言語活動を英語で行う。」と書かれています。

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無条件に「英語で行う」というのです。
これでは、「すべて英語で行う」と理解されても仕方がありません。
日本語で意味内容や背景知識を確認し合うなどの活動はいけないのでしょうか。

ちなみに、「コミュニケーション英語 I」には仮定法などのすべての文法材料が含まれるようになりましたから、素直に読めば「仮定法の指導・学習なども英語で行う」となります。
実際に生徒に理解できるようにやってみせてほしいものです。

しかし、
(2)「第3款 英語に関する各科目に共通する内容等」の記述を見ると、次のように書かれています。

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ここでは、授業は英語で行うことを基本とするとなっており、「基本とする」が付いているので、「すべて英語でなくてもいいのかな」という含みを持たせています。

なのに、その直後には「生徒の理解の程度に応じた英語を用いるよう十分配慮する」とあり、日本語のことは書いていないので「やっぱり英語だけでやれというのかな」となります。

ところが、遅れに遅れて(つまり大いにもめて)今年の5月に刊行された
(3)「高校学習指導要領解説」 では、次のように書かれています。

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「日本語を交えて授業を行うことも考えられる」

おいおい、同じ文部科学省の名前で出された(3)「解説」と、(1)(2)「指導要領」とがどう整合するのか、私の日本語力ではよくわかりません。

「授業は英語で」という方針の無謀さ、学問的裏付けのなさに動揺し、途中で政権交代もありましたし、すったもんだの挙げ句に「日本語を交えて授業を行うことも考えられる」などとなったのでしょうか。
なら、指導要領の本文もそう書き直すべきです。

大きな方針転換(?)の割には、あまりに無責任な文章と言わざるを得ません。
指導要領のこの部分の作成者は、英語以前に、日本語の鍛錬と、日本語による思考力の訓練が必要ではないでしょうか。

では、「授業は英語で」という方針のどこが誤りなのでしょうか。
次回は具体的に述べてみたいと思います。

(つづく)