希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

教師の仕事とは(内田樹氏から学ぶ)

内田樹先生の『街場の教育論』(ミシマ社、2008)から、さらに珠玉の言葉を拾い集めましょう。

「問題は教師と子どもたちの『関係』であり、その関係が成立してさえいれば、子どもたちは学ぶべきものを自分で学び、成熟すべき道を自分で歩んでいく。」(127-128ページ)

昨日のブログでは、生徒同士の人間関係力の大切さについて以下のように述べました。

「コミュニケーション能力の発達のためには、4技能というごく狭い「学力」にとどまらず、高い目標に向かって「学びのネットワーク」を構成できる人間関係力を育むことが必要不可欠なのです。」

これに加えて大切なことは、教師と子どもたちとの「関係」なのです。

英語教育に即して言えば、英語の授業は単に4技能のスキルと伸ばしたり、テキストを4技能統合型で教えることだけではありません。

いわんや、教壇から「教え込む」ことではありません。
食欲がわかなければ、人はどんなご馳走でも食べようとしないのですから。

教師は生徒たちが知らない「外部」の世界を知っています。
シェークスピアがどれほどすごいか。英語がどう変化してきたか。イギリス人と犬との関係はどうか。

ときには「脱線」し、若き日の英語学習の苦労話を語ったり、英語すら離れて、なぜ大学に進もうと考えたのか、そして恋愛や学生生活、先日観た映画がいかによかったか、阪神タイガースはどないなるんやろか・・・

もちろん、あるクラスでウケた話が、別のクラスで全く盛り上がらないことがあります。
先日笑ってくれたAさんが、今日はブスッとしていることもあります。

「授業」は実に複雑で、生もので、だからこそ教師は日々研鑽するプロ意識が求められます。

文科省が推進しているように、単に英語ができれば教壇に立てるというものではありません。

いわんや、「授業は英語で行うことを基本」としてしまっては、授業中の「雑談」を含めて、生徒との「関係」形成が著しく妨げられます。

これは、授業としては致命的な問題なのです。

生徒たちは、教師の日本語の微妙なニュアンス、声の調子、表情などに敏感に反応します。
教師はそうした反応をレーダーのように感知しながら、次の授業を組み立てていきます。

そうした鋭敏なアンテナに「授業は英語で」という覆いを掛けることに、どんな意味があるのでしょうか。
まともに教壇に立ったことのある人間が出した政策とは思えません。

財界などが英語はグローバル展開のためのスキルとしかみなさないのは、資本の論理から言えば当然でしょう。しょせん、金儲けのためですから。
効率性の観点から、授業中の「雑談」などもってのほかと考えるでしょう。しょせん、金儲けのためですから。

しかし、そうした資本の論理から言っても、誤りです。

「授業は英語で」に代表されるスキル主義は、教室内の「関係性」を弱め、ときにズタズタにします。

本来「その関係が成立してさえいれば、子どもたちは学ぶべきものを自分で学び、成熟すべき道を自分で歩んでいく」のに、その基盤となる関係性を破壊することで、学びの力を弱めてしまうのです。

上からの英語授業改善があれほど叫ばれてきたのに、子どもたちの英語学力が一貫して低下し続けている一因は、その点にあるのではないでしょうか。

最後は、再び『街場の教育論』からの引用で締めくくりましょう。(158ページ)

「自分が現に経験的に熟知している世界。リアルな世界。人々があくせくと働いて、愛したり、憎んだり、生まれたり、死んだりしている世界がここにある。それとは違う鏡位に、『外部』が存在する。そこには永遠の叡智がある。自分のいる世界とは違うところに叡智の鏡位がある。それを実感しさえすれば、『学び』は起動する。あとは、自分で学ぶ。」

「ですから、教師の仕事は『学び』を起動させること、それだけです。『外部の知』に対する欲望を起動させること、それだけです。そして、そのためには教師自身が、『外部の知』に対する烈しい欲望に現に灼(や)かれていることが必要である。」