『伊都郡誌』(1918)には「郡内子弟のこれに学ぶもの多く、現下要路の人にして、この私塾に学びたるもの少なからず」とある。
校長は稲本保之輔(1851~1889)、副校長は慶應義塾を卒業したばかりの森田庄兵衛(1862~1924)であった。
翌明治15年11月には郡民啓蒙のための学塾「自助義塾」を開校、明治16年9月には和歌山県会議員を辞し、自助私学校や養蚕伝習所(明治18年設立)などの運営に取り組んだ(山田豊『稲本保之輔と紀北の自由民権運動』1984年)。
「自助私学校規則」によれば、同校は予科と本科(修業年限4年)からなり、入学資格は満12歳以上で小学中等科卒業相当の学力を有するものとされた。
教科目は、主として英学、漢学、算術、習字であった。
自助私学校は紀北における民権派の拠点のひとつだったようで、1888(明治21)年2月には同校で自助同盟会の結成大会が挙行され、会長に森田庄兵衛、副会長に稲本保之輔が選出されている。
ただし、同年11月には校長だった稲本保之輔が自殺しているから、このころ自助私学校も閉鎖されたと思われる(明治20年閉鎖説もある)。
自助私学校英学研究所
明治10年代末から20年初めにかけては条約改正機運と欧化主義により全国的に英語熱が高まった時代で、自助私学校でも英学を重視したようである。
その内容は「読本・文典・地理・政治・経済・修身・法律・哲学等ノ書ヲ用イ、或ハ読法ヲ授ケ、或ハ意義ヲ講シ、或ハ生徒ヲシテ輪読セシム」(「私立学校設立ニ付伺」)とある。
このように、英書によって欧米の広範囲にわたる先進的学問を摂取しようとしていた。
自助私学校がこうした英学に力を注いだことは、英学研究所を附設したことからも明らかである。
同研究所は「普通ノ英書ヲ研究スルヲ以テ目的」とし、当初は橋本小学校内に置かれた。
同研究所は「普通ノ英書ヲ研究スルヲ以テ目的」とし、当初は橋本小学校内に置かれた。
職員は教師1名、幹事2名で、創設者13名、研究者41名の名前が連記されている(「英学研究所仮規則」明治19年5月)。
また、自助私学校はもっぱら英学の教授を目的とした「夜学」も開設した。
原則として毎夜2時間の開講で、内容は「教科書ニ就テ読法ヲ授ケ意義ヲ講ス」とあるように、英書の読解だったようである(自助私学校夜学規則〔作成年不詳〕)。
原則として毎夜2時間の開講で、内容は「教科書ニ就テ読法ヲ授ケ意義ヲ講ス」とあるように、英書の読解だったようである(自助私学校夜学規則〔作成年不詳〕)。
次回は、いよいよ河島敬蔵の登場である。
(つづく)