希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

和歌山県英語教育史(8)

英語教育者としての杉村広太郎(楚人冠)

朝日新聞を拠点に、戦前の代表的なジャーナリストとして名を馳せた楚人冠・杉村広太郎(1872~1945)は、若き日に英語教育者として活躍していた。

本稿ではその側面に光を当て、知られざる和歌山生まれの英語教師・楚人冠の足跡をたどってみたい。
なお、杉村については小林康達の優れた伝記『七花八裂:明治の青年 杉村広太郎伝』(2005)や同『楚人冠:百年先を見据えた名記者 杉村広太郎伝 』(2012)があり、参考になる。

就学時代

杉村広太郎は、1872(明治5)年に和歌山城下の谷町に生まれた。
小学校を終えると、1883(明治16)年に11歳で和歌山の自修学校に入学し、英・漢・数学を学んだ。
自修学校は旧藩主の徳川茂承の財政援助を受けた私立の中等学校で、慶應義塾の出身者が英語教師を務めていた。

この学校で初めて英語を学んだ杉村は後年、「英語発音も福沢流の変ちきりんなもので、thとsとは区別がつかず、VとB、LとRとは皆同じ音のやうに教へられた」と回想している(杉村楚人冠「河島敬蔵翁」『英語青年』1935年7月1日号)。

しかし、12歳のときに和歌山が生んだ偉大なシェークスピア学者の河島敬蔵から初めて正しい英語の発音を習った。
「変に舌を巻いて、妙な発音をするのが、子供心に大変珍しかつた」という(杉村、同上誌)。

杉村は自修学校では1種の「いじめ」による不登校に陥ったらしく、翌1884(明治17)年には県立和歌山中学校(桐蔭高校の前身)に転じている。

しかし、2年後には学校の運営方針をめぐって校長の菅沼政経と対立し、抗議のために退学した。
明治期の中学校では生徒のストライキが珍しくなく、石川啄木も教員排斥のストを首謀して中学を退学している。

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中学を去った広太郎少年は和歌山英語学校で英語を学んだが、1887(明治20)年に上京し、英吉利法律学校(中央大学の前身)に入学した。

そこも退学して、1889(明治22)年には東京の代表的な英語学校であった国民英学会に入学し、米国生まれの言語学博士F. W. イーストレーキらから英語を学んだ。

この頃、南方熊楠も関係した『和歌山学生会雑誌』の編集に携わった。
杉村はアメリカに渡った熊楠と文通を重ね、自分の写真まで送っている。

1890(明治23)年12月には国民英学会の本科を首席で卒業し、銀杯を授与されている。
卒業時の英語論文The Meaning of the Imperial Diet(帝国議会の意義)は同校の機関誌『国民英学新誌』第46号(1890年12月)に掲載されている。
達意の英文とジャーナリストとしての視点が見事に融合した論文である。

翌1891(明治24)年にはイーストレーキが設立した日本英学院で英語の研鑽を積んだ。
杉村は1905(明治38)年にイーストレーキが亡くなるまで深く師弟関係を結んでいた。

しかし、その年暮れには和歌山に戻り、翌1892(明治25)年には『和歌山新報』の主筆として論説・編集に従事した(翌年8月まで)。
ジャーナリストとしてのスタートは和歌山で始まったのである。なお、この新聞は現在の『和歌山新報』とは無関係である。

1893(明治26)年には再び上京し、欧文正鵠学院(サンマー学校)を経てユニテリアン協会の自由神学校(後に先進学院と改称)に入学し、1896(明治29)年に卒業している。
学校制度が整備されている現在とは学びのスタイルが大きく異なることがわかる。

なお、杉村はWashington IrvingのWolfert Webberを訳し、無署名ながら1893(明治26)年に『日本英学新誌』に1年間連載された。
また森鴎外の『舞姫』を英訳し、同誌にイーストレーキ訳として連載している。

英語教育者時代

1894(明治27)年1月からは通信教育機関であった大日本中学会の英語講義録の作成に協力した。
師であるイーストレーキが担当していた英語・英語科訳読・英文法講義・会話の翻訳と編集が仕事だった。
杉村自身も1900(明治33)年に英文書簡の書き方を講義した「英文書牘認方」を著している。

1894(明治27)年4月には先進学院に在学のまま、イーストレーキが設立した東京学院の英語教員となった(同年7月まで)。
受け持ちは1週12時間で、New National ReadersやSwintonのOutlines of The World's History(万国史)、英文法や書取りなどを講じた。

授業は好評だったようで、4月11日の杉村の日記では、「生徒いづれも満足して傾聴せる姿なり。先づサクセスフルといふべし。生来初めての講義なれば結果如何にやと案ぜしが、尚続て講ぜられよとの頼さへありし位なれば、先づ結構なり」と述べている(小林2005:133)。

直後の1894(明治27)年6月には、東京学院通信研究会が発行した英語通信教育の講義録である『英学』(英語英文独習資料)主筆として、いわば社会教育としての英語教育にも従事している。

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しかし、東京学院は1894(明治27)年10月に廃校となり、東京通信研究会編輯となった『英学』も1896(明治29)年2月の17号で廃刊となった。

こうして杉村は、1896(明治29)年9月に京都の西本願寺文学寮の舎監兼教師として英語と国語を教える。
同校は予科と本科が旧制中学に相当し、その上に2年制の高等科があった。同校は現在東京にある高輪中学・高校の淵源とされる。

杉村の受持は翻訳6時間(本科と高等科)、論文2時間(高等科)、国文7時間(本科)の週15時間だった。
課外の演説会などにも積極的に3加し、「英語速成の法十ヶ条」を講演している。
また仏教系の反省会教育部でも、英語を学べない地元民のために週1回英語を教えている。
しかし、学校の運営方針と反りが合わず、翌年5月に西本願寺文学寮を退職している。

その後は3たび上京し、9月には斎藤秀三郎が校長を務める正則英語学校で週15時間教えた。
三省堂の和英辞書にも関わっている。

このころ、杉村は仏教に関心を寄せるとともに、社会主義研究会に3加して幸徳秋水堺利彦(枯川),片山潜らと接している。

こうして、杉村は3谷浩の筆名で論文「平等主義の真意義―我が階級打破論」を『中央公論』1899(明治32)年1月号に発表している。思想的な模索期だったようである。

1899(明治32)年1月には正則英語学校を辞め、直後には通信教育機関である大日本英語学会で講義録の執筆に関わっている。

神奈川県立外国語短大には「杉村廣太郎著」と印刷された大日本英語学会の『英語学講義 作文科』が所蔵されている。
ただし、筆者が所蔵する同講義録では講師名が佐久間信恭となっているから、実際には杉村が執筆した講義録を当時著名な英学者であった佐久間信恭の名前で発行したのであろう。

杉村は同じ1899(明治32)年の3月には雑誌『実用英語』に、4月には大日本中学会講義録にも関係し、5月末からは京華中学でも週1回3時間教えている。

そうした多忙をきわめていた同年2月には暁星学校夜学科でフランス語を学び始めているから(1901年10月まで)、杉村は相当な語学好きだったようである。

1899(明治32)年6月には先進学院のマッコーレイの推薦で米国公使館に入り、翻訳や通訳に従事している。
1901(明治34)年3月からは毎朝出勤前に東亜同文書院で英語を教え、約10カ月続いた。
1903(明治36)年12月には公使館を辞め、朝日新聞社に入社する。

こうして、杉村はジャーナリストとしてのライフワークの場を得るのである。
それは同時に英語教育界に別れを告げた瞬間でもあった。

つづく