希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

和歌山県英語教育史(3)

2月20日に韓国ソウルから戻った。

 

料理もショッピングも楽しかったのが、巨大な国立中央博物館の展示品には圧倒された。

 

ずっと観たかった半跏思惟像をはじめ、青磁白磁など、いずれも息を飲むような名品が展示されていた。
感動。

 

さて、歴史の奥深さに触れた旅のあとで、和歌山県英語教育史の連載を続けよう。

初期の英語教育と英学者

1873(明治6)年には県学洋学舎を引き継ぎ、和歌山県初の中学校である英学中心の開知中学が開設された(後述)。

 

そこでは、「慶應義塾読本」の別名をもつ『ピネオ英文典』や、全国的な人気を博した『パーレー万国史』(Parley’s Universal History)などが教えられた。

 

こうして英学熱が高まる中、1873(明治6)年11月には南海逸人著『西洋文字組駒例式(The Method by Wooden Types of European Letters)』が紀州和歌山藤井氏蔵版として刊行された。

 

確認された限りでは、明治期に和歌山で刊行された最も初期の英語教材で、絵を多用して英文字や語句を教える啓蒙的な入門書である。

 

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1875(明治8)年には慶応出身者らが私立英語学校「自修学舎」(自修英学校・自修私学校)を創設し、のちに朝日新聞記者として論断で活躍する杉村楚人冠(本名、広太郎:後述)らが学んだ。

 

鎌田栄吉は1878(明治11)年ごろ、ここでギゾーの文明史(Guizot: The History of Civilization)などを教え、のちに校長となった。

 

鎌田を含め、明治初期に活躍した和歌山出身の英学者を以下に見ていきたい。

 

松山棟庵(1839~1919) 
現在の那珂郡桃山町に生まれた英米系医学者・英語教育者である。
1866(慶応2)年から慶應義塾に学び、1870(明治3)年には和歌山の「共立学舎」で福沢諭吉の名代として英学を教えた。

 

明治6年には米国の児童用読本である『サルゼント第3リイドル』(Sargent’s Third Reader)を訳述して出版した。

 

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その原書も慶應義塾から翻刻出版され、『大阪女子大学蔵 日本英学資料解題』(1962)には「現在使われている英語教科書の源をなすものと云えようが、当時においてすでにこのような教科書が使用されていたことは驚嘆に値する」とある。

 

鎌田栄吉(1857~1934) 
藩校の学習館洋学寮や県学、および開知中学校で英学の研鑽に励み、1873(明治6)年に開知学校の洋学手伝となった。

 

翌明治7年には慶應義塾編入し、最初の試験で主席となった。
1875(明治8)年には慶応義塾教師となり、パーレーの万国史などを教えた。

 

1878(明治11)年には和歌山の自修学校(のちの徳義中学)校長となり、バジョーの英吉利憲法論やギゾーの文明史などの英書を教授した。

 

自由民権運動の高揚期には講堂を開放してミルの代議制体論、ベンサムの立法論綱、スペンサーの教育論などを講演したという。

 

のちに衆議院議員慶應義塾塾長、文部大臣などを歴任した。

 

松島剛(1854~1940) 
江戸の紀州藩邸で生まれ、幕府の開成所および紀州の洋学寮でフランス語を学び、明治5年からは本郷湯島の共貫義塾で英学の修業を開始した。

 

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英学修業は洋行を目指したものだったが、和歌山出身の陸奥宗光(のちに外相)に相談したところ「何も知らずに外国に行くと雑益に使われるだけだから、少し英語を学んで行くがよかろう」と諭され、英語を猛勉強した。

 

1876(明治9)年からは慶應義塾で学習を続けるかたわら、慶應義塾幼年寮(のちの幼稚舎)で英語を教えた。
ちなみに、慶応幼稚舎の創設者だった和田義郎も和歌山出身である。

 

松島は明治8・9年ごろに和歌山の自修舎で英語を教え、その後も各地の中学校の教壇に立った。

 

1886(明治19)年には東京英和学校(青山学院の前身)の教授兼幹事となって、約40年にわたって同学院の発展に貢献した。

 

松島が1881(明治14)年に翻訳出版した『社会平権論』(Herbert SpencerのSocial Statics)は大ベストセラーとなり、板垣退助をはじめとする自由民権運動家に絶大な影響を与えた。

 

「非常に熱心に且つ忠実に訳されて居り、原文と対照して見ても今日から見て佐程変に思わるる所もなく其の当時としては非常によい訳であったらう」(明治文化全集版の解説)と高く評価されていることからも、松島の卓越した語学力がうかがえる。

 

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英語のignoreを「無視する」、centuryを「世紀」と訳したのもこの訳書が最初とされる。
だが、藩閥政府は訳者の松島を恨み、彼には教員検定資格を与えなかったという。

 

松島は膨大な著作を残したが、彼が関係した検定済英語教科書としては以下のようなものがある。

 

・『スイントン万国史要』(明治19年
・The Elementary National Spelling Book(高等小学校用として明治21年に検定認可)
・『英語新読本(Swinton's Reader)』(中学校用として明治30年認可)
・『新式英習字帖』(明治31年認可)
・『ナショナルリーダー英文読本』(明治31年認可)
・『New National Readers(英文日本歴史談挿入)』(明治33年認可)
・『英語高等読本(Progress)』(明治34年認可)

 

さらに、英語教授法に関しては明治29年刊行された『英語教授法管見』が重要である。

 

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なお、日本における英語教授法研究は明治20年代に本格化するが、そこにおける和歌山出身者の貢献は大きい。

 

最初期の英語教授法関係書4点のうち、岡倉由三郎『外国語教授新論』(明治27年)を除く、
・マーセル原著・吉田直太郎訳『外国語研究法』(明治20年
・崎山元吉『外国語教授法改良説』(明治26年
・前述の松島剛『英語教授法管見』(明治29年
の3点が、和歌山出身者によるものである。

 

この事実はもっと知られてよい。

 

このように、明治初期に和歌山に開設された共立学舎などの洋学校は、短命ながらも逸材を育む苗床となった。

 

そこに学んだ若者たちは、慶應義塾などでさらに英学修業を続け、和歌山県はもとより全国規模で近代教育に力を尽くしたのである。

 

つづく