希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

和歌山県英語教育史(5)

和歌山の英学者・河島敬蔵

和歌山の自助私学校の英学教師だった河島敬蔵は、安政6年(1859)に現在の和歌山市湊通り町に和歌山藩士河島喜八郎の長男として生まれた。

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自助私学校の関係資料の中に河島の履歴書(写真)が収められているので、それらをもとに河島の履歴を紹介しよう。

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河島敬蔵は、1869(明治2)年には和歌山藩の学習館洋学寮で英語とフランス語を学習、廃藩置県後の1872(明治5)年6月には和歌山の岡山学校(県学)英学変則科に進んだ。和歌山大学教育学部の遠い前身である。
同級生には慶應義塾の塾長となる鎌田栄吉や関直彦らがいた。

しかし、そこでの英学は発音無視の「変則式」であったため、神戸に出て本式の英語を学び、翌1873(明治6)年には大阪川口居留地に米人宣教師モリスが開校した英和学舎に入学、1875(明治8)年から東京の立教学校(立教大学の前身)で学んだ。

その後、1879(明治12)年4月から1881(明治14)年10月まで和歌山自修私学校で数学を教え、大阪での教師生活を経て、明治16年3月から18年5月まで和歌山の私立徳修学校で数学を教授した。

「数学を教えた」というと意外に思われるかもしれないが、この時代の西洋式数学は教科書も授業も英語で行うのが一般的だった。

数学だけではない。地理も歴史も物理も化学も英語で教える「英学」の時代だったのである。

河島は、1883(明治16)年2月から4月まで『日本立憲政党新聞』に『ジュリアス・シーザー』の本邦初訳である「欧州戯曲ジュリアス・シーザルの劇」を連載し、1886(明治19)年には『沙吉比亜戯曲 羅馬盛衰鑑』として出版した。

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訳文の筆記は教え子の元田作之進(後年、立教大学学長、日本聖公会第一監督)が担当したという。
比較文学者の吉武好孝によれば、「これはわが国でも原文を逐次訳した初めての翻訳であって、訳文も実に流暢な日本文であり、明治初期における外国文学翻訳のなかでも断然光っている名訳のひとつである」という。

河島は1885(明治18)年9月から明治20年まで自助私学校で英学と数学を教授した。
和歌山県北部の伊都郡大谷村に居住し、若者たちに英学を講じる傍ら、世界の大勢を語り、シェークスピアの作品について語り聞かせたという。

そのシェークスピアに関しては全戯曲の翻訳を企て、全37編中22編を読破、主要な作品を訳出した。
しかし、前述の『シーザー』以外に出版が実現したものは、『ロミオとジュリエット』の本邦初の完訳である『露妙樹利戯曲 春情浮世之夢』だけであった。

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同書は1886(明治19)年5月に和歌山の耕文舎から刊行され、翌年には再版も出た。
題辞は当時徳義学校校長の菅沼政経校閲は同教頭の瀧本誠一である。

本訳書の価値は、吉野作造によって『明治文化全集』第14巻・翻訳文芸編(1947)に収録されたことからも明らかであろう。

しかし、河島は1887(明治20)年に横浜のビクトリア学校(Queen Victoria Public School)に招聘され、和歌山を離れた。

河島を失った自助私学校は英語教師の確保に苦労したようで、副校長だった森田庄兵衛が横浜の河島に英語教師の斡旋を頼み、これに対して河島は明治20年12月に教師確保の困難さを回答する手紙を送っている。

河島はビクトリア学校で英国人生徒らを3年間教え、その後は逓信省勤務を経て母校の立教大学講師としてシェークスピアなどを講じた。

また、学生や一般向けに多くの英語教材を執筆し、日本の英語教育に貢献した。
明治30年代に刊行したものだけでも、『学生会話』、『英語会話教科書』、『英作文初歩』、『英語発音階梯』、『ナショナル第四読本注釈』、『英国航海中会話独習』、『三ヶ月英語独習』、『イソップ物語注釈』、『アリババと四十の盗賊』、『Carpenter’s Asia 日本と朝鮮』、『三人令嬢 附 夏の夜の夢』などがある。

こうして名声を博した河島だったが、晩年は不遇で、困窮のうちに1935(昭和10)年5月に大阪で逝去した(享年77歳)。墓所は大阪阿倍野にある。

しかし、竹村覚は『日本英学発達史』(研究社・1933)のなかで、河島敬蔵の人と業績を詳述し、世に再認識させた。

かくして戦後の1953(昭和28)年11月には、和歌山市・市教委・同文化協会が第4回文化功労者として河島敬蔵を顕彰したのである(田中敬忠他『文化顕彰者小伝』1958)。