希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

和歌山県英語教育史(1)

2012年度の和歌山大学大学院の最後の演習で、「紀州・和歌山英語教育史」を取り上げた。

院生たちの関心が高かったこともあり、何よりも和歌山の大学に勤務していることの責務から、「和歌山県英語教育史」を掘り起こす必要性を痛感している。

そこで、これまでの研究成果の一端を紹介したい。

うち、いつくかは、以下のような書籍・紀要等に発表の機会を得た。

○『和歌山英語教育研究会研究紀要 EVERGREEN』第7号、2001
○『和歌山県教育史』全3巻、和歌山県教育委員会、2006~2010
○『日本人は英語をどう学んできたか:英語教育の社会文化史』研究社、2008
○『和歌山英語教育研究会研究紀要 EVERGREEN』第8号、2009
○『STEP英語情報』2010年11・12月号、日本英語検定協会

ただし、まだまだ「点描」の域を出ておらず、未解明な点が多いことをあらかじめお断りしておきたい。

はじめに

紀州和歌山と英語との出会いは古い。
アメリカ船が最初に日本にやって来た地は和歌山だった。
ペリーの黒船が来航する62年前の1791年に、2隻の米国商船が紀伊半島最南端の串本大島に寄港し、住民と交流していた。

幕末・明治初期、英学の最大拠点だった慶應義塾に最多の留学生を送り出したのも紀州和歌山だった。
福沢諭吉を和歌山に招聘する計画まであった。

和歌山で教えていた偉大なシェークスピア学者である河島敬蔵は、「ジュリアス・シーザー」を日本で初めて翻訳し、1886(明治19)年に『沙吉比亜戯曲 羅馬盛衰鑑』として出版した。
翌年にも「ロミオとジュリエット」を『露妙樹利戯曲 春情浮世之夢』と題して和歌山で刊行している。

和歌山は全国一の移民県であり、北米などへの出稼ぎ移民が多かった。
紀州人にとって、海は世界と結ぶ交通路だったのである。

日高郡三尾村(現・美浜町)からは多くの村民が北米に出向き、帰国すると洋風の家に洋式で暮らした。
三尾は「アメリカ村」と呼ばれ、移民資料館が建てられている。

捕鯨で有名な太地町出身の筋師千代市は、移民体験をいかした英語独習書『英語独案内』を1901年に太地で刊行している。

世界の現実を知った紀州移民たちは、ときに平和のために身を挺した。
太地出身の画家・石垣栄太郎と綾子夫妻はアメリカで反戦運動に尽力し、アメリカ帰りの北林トモは、国際的な反戦情報活動であるゾルゲ事件(1941)に連座して投獄された。

小学校の英語教育でも和歌山は先進的だった。

和歌山県師範学校附属小学校では、1924年から1・2年生(6・7歳)に週3回英語を教えていた。
日本人教師とネイティブとのティーム・ティーチング方式により、視聴覚教材を使って英語の音やリズムに慣れさせる内容で、当時の公立小学校には例を見ない実践だった。

戦前の高等小学校における英語教育の実施率を見ると、和歌山県は全国6位の高さだった(1939年)。

このように、和歌山は明治期から高い英語熱を誇っていたのである。
年代を追って見ていきたい。

藩政改革と洋学校

和歌山における教育の近代化は、藩校の改革と洋学の導入をもって始まる。

江戸時代に開花した蘭学は、文化5年(1806)の英国船フェートン号の長崎侵入事件を契機に、英学(英語による西洋知識の摂取)にとって代わられる。

紀伊半島沖を流れる黒潮は多くの海民たちを北米大陸にいざなった。
18世紀末には紀州沖にも西洋船が出没するようになり、寛政3(1791)年3月24日(旧暦)には米国商船レディ・ワシントン号(写真)とグレイス号が紀伊半島南端にある串本沖の大島に寄港した。

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これは日本にやってきた最初のアメリカ船であり、ペリー来航による開国の実に62年前のことである。

大島には1973年に日米修好記念館が建てられている。

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嘉永4年(1851)には、紀州下津出身の船乗りだった伝吉(ダンケッチ)が漂流の末に米国に着き、イギリスの初代駐日総領事・公使オールコックの通訳となった(神坂次郎『漂民ダンケッチの生涯』)。

和歌山藩は大藩のわりには洋学が立ち遅れていたとも言われるが、幕末・維新期には優れた洋学者を輩出していた。

たとえば、安政4年(1857)に刊行された柳河春3編『洋学指針』(蘭学の部)は紀州新宮藩から出版され、続編である慶応3年(1867)の『洋学指針』(英学の部)を校閲した篠崎隆由は新宮藩士、印東玄得(旧姓坪井)も紀州藩士であった。

同じく慶応3年には、紀州の洋学者である池田良輔が英文法書『英訳文典』などを自ら刊行している。
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%92r%93c+%97%C7%95%E3

そうした背景の下で、幕末・明治維新期の和歌山藩では学制改革が進められ、洋学教育が開始された。

藩政改革を主導した津田出は大阪の紀州藩邸に洋学校を開校し、星亨らを英語教師に雇い入れて藩士に英語を学ばせた。

維新前の紀州藩の藩校には、学習館・国学所・蘭学所・医学館・文武場・江戸官邸内学校明教館・松阪学問所などがあった。

学習館知事だった浜口梧陵はこれらを整理統合すると同時に、身分に関係なく入学を認め、明治2年4月には岡山(和歌山城の南隣)の学習館に洋学寮(洋学所)の附設を布達した。

それにはオランダ語・フランス語・英語・ドイツ語を教授する方針が明記されており、本格的な西洋語教育の開始を告げるものだった。

同年7月に福沢諭吉から浜口に送られた手紙には、慶應義塾が刊行した英文典教科書(写真)を156冊も紀州に送ったと記されており、藩内での英学熱の高まりをうかがい知ることができる。

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この洋学寮では前述の池田良輔らが教壇に立ち、のちに一流の英学者・教育者として活躍する鎌田栄吉、河島敬蔵、松島剛らの逸材を輩出した(後述)。

学習館は明治2年12月に「学校」と改称され、翌年7月には和歌山城二の丸に移された。

岡山の跡地には兵学寮が置かれ、和歌山藩はドイツ人カール・ケッペンを指導者とするプロシア式の軍制を全国に先がけて採用した。

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つづく