希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

和歌山県英語教育史(11)

玉置彌造の英語教育論と『写真で教へる英語』(その2)

3. 玉置彌造の英語教育論

玉置の英語教育論は、著書『留学二十二年 アメリカを透視す』(1932)に収められた「英語教授法改善意見」(pp. 150-169)などから窺い知ることができる。

「本文は尾崎行雄翁の共鳴を得、翁から文部当局に提出せられた意見書の梗概であるが、この論旨は大阪朝日新聞を初め全国二百有余の新聞と五六の雑誌にも掲載された」(p. 150)とある。
ただし、『英語青年』や『英語の研究と教授』を調査した限りでは掲載されていない。

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論文の末尾には、玉置の英語教育論に賛同する中村巍(元外務政務次官)、上田貞次郎(東京高商教授、東京高商で玉置の同級生)、杉村楚人冠(東京朝日新聞顧問、和歌山出身)、釈瓢齋(大阪朝日新聞論説部長)、広田伝蔵(東京市教育局視学課長)のメッセージが載せられている。

こうした政治家、マスコミ、教育関係者のバックアップを受けた玉置の主張の眼目は、彼自身の滞米22年の経験に根ざした、「聴く」「話す」を中心とした実践的コミュニケーション力を育成せよということである。

その概略は以下のとおり(不適切な表現もあるが、原文のまま)。

・英語教師はまったく外国人に通じない発音である(「唖聾(おしつんぼ)同様の英語教師」)。

・中学生の英語教授法を改善するためには、まず高校・専門学校の入学試験法を「聴く」「話す」も取り入れた実用本位に改善せよ。

・アクセント筆答試験をやめよ。口頭にて練習すべき発音を頭で覚えさせる愚である。

・英語を聴いて理解し、口で意志表示するためではなく、目で見て理解する「眼語教授法」を根本的に改めよ。

・生徒は教師の実力を吟味し、本物の教師につけ。

・英文学を研究するよりもまず実用英語を研究せよ。

・文法は意思表示の自由を拘束する。これに拘泥せず、文字のUsageを研究し、適所に適語を用いて自由に意思表示させよ。

いずれの主張も、今日のコミュニケーション重視派の主張に通じるものである。

当時は、1927(昭和2)年の藤村作による英語科廃止論を契機として、学校の英語科教育の非実用性が厳しく糾問されていた。

そうした時代の雰囲気の中でにあって、玉置の学校での英語教授法、英語教員、入試問題への批判を含む実用主義的な主張は、英語科教育への不満を強めていた世論に受容されやすかったと思われる。

この点も現在と類似している。
ただし、やがて1930年代後半以降になると、英語そのものを敵視する風潮が強まるのであるが。

4.  『写真で教へる英語』の特徴

上記の英語教育理念を実地に移すべく、玉置は独自に考案した英語教材を1933(昭和8)年に自ら刊行した。

『標準正音 写真で教へる英語 学校用・家庭用』である。

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この本は、「身体」「動物」などのテーマ別に、写真・挿絵381種を見せながら語句(計3,285)を覚えさせようとする独創的な英語教材である。

子ども用ながら、最初のページに登場するオールヌードの女性には度肝を抜かれる。

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ご覧にように、ヌードとはいえ芸術レベルの写真だが、さすがに教材としてはまずかったのか、第3版の途中から着衣の男性に換えられた。
(*気色悪いので画像は載せません。)

1933(昭和8)年4月26日に初版を発行、1ヶ月足らずの5月16日には第3版が発行されているから、好評を博したようである。

ただし、教材として消耗品扱いされたためか、遺憾ながら国立国会図書館を含め、全国の主要図書館には所蔵されていないようである。

この当時、画像を駆使した英語教材としては、Walter Rippmann著『新案 英語絵単語』(1909年)、高野鷹二著『中等英語読本参考図鑑』(1928年)、山田巌English through Pictures(1931年)などがあるが、玉置の『写真で教へる英語』の方がはるかに本格的である。

また、玉置の先駆性は、豊富な写真・画像のみならず、長年のアメリカ生活で体得した「標準正音」を忠実に仮名で表記している点にもみられる。

R音を「ラリルレロ」、L音を「らりるれろ」と区別し、アクセントの部分を太字にするなどの工夫をしている。

 (例)Stadium スイデイアム    Lion イアン    Ivory イヴァリ
    Lemon マン    Musical-society ューズィカるサイアティ 

なお、玉置は本書の刊行に先立ち、実子の辨が2歳のときから写真、人物、植物、鉱石見本、地球儀、器具などを使った英語教育を実行していた。

玉置辨氏の回想によれば、書籍は『字源』や明治初期の英語辞書などが与えられ、文法や読本は使用せず、英語についての説明は発音についてだけで、たとえばHujisanではなくFujisannであると何度もリピートさせられたという。

小学校入学後は、たまにJapan Times日曜版の漫画を見せて説明を求められたが、英語よりも漢字を学習するように言われたという。

『写真で教へる英語』は小学校でも使用されたようで、和歌山県北部の粉河小学校は、今でも同書を所蔵している。

また、有田市箕島在住の石井和夫氏(1932年生)は、同書を手にしたときの感想を次のように述べている(私信;2006年4月)。

「私がこのテキストを見たのは、小学校3年生(昭和15年)か4年生のころだったと思います。
テキストの中でオートバイに乗っている若い人の姿を見て、カッコいいなと思い、大人になったら自分も乗ってみたいなと皆で話したのを覚えています。
このテキストを見た時には、英語(ことば)よりも皆が写真に興味を持って色々話したことを覚えています。
今改めて、玉置氏のこのテキストが小学校時代の思い出として強く印象に残っているということは、指導や、教材に興味をもたせることについて、このテキストのもつ意義が如何に大きかったかを物語るものと思っています。」

大判の鮮明な画像を通じて、外国語や異文化への興味をかき立て、子どもの学習動機を高めた様子がうかがえる。

5. 市井の英語教育者

玉置彌造は、郷里の有田郡箕島町で玉置日米研究社を主宰し、1933(昭和8)年には同地でビジュアル英語教材の白眉と評すべき『標準正音 写真で教へる英語 学校用・家庭用』を刊行するとともに、尾崎行雄鳩山一郎を含む幅広い人脈を活かして文部省に独自の「英語教授法改善意見」を提出するなど、注目すべき活動を展開していた。

全国一の移民県である紀州和歌山の風土に育まれた玉置彌造は、22年もの長きにわたりアメリカで活動した。

そこでの経験と英語力と活かすべく、帰国後は郷里での活動し、後に東京九段に「玉置英学院」を開設した。

すでに述べた筋師千代市と同様に、玉置は公的な学校では教えなかったために、これまでほとんど記録に残されることはなかった。

しかし、近代日本の英語教育は、彼らのような「赤ヒゲ先生」とも言うべき市井の人々によっても担われていたのである。

そうした史実の発掘と評価もまた英学史・英語教育史研究の使命であろう。

玉置は敗戦直後の1946(昭和21)年頃、箕島小学校の一室を借りて夜間に週3~4回、無報酬で英語を教えた。

近隣の町村からも約50人が集まり、盛況だったという。
そこで学んだある女性(1928年生)は、いまでも玉置をありありと覚えているという。

「授業は会話中心で、板書をノートに写しました。玉置先生は和服姿でステッキをついて来られ、帰りにはステッキを振り上げてBye-bye!とおっしゃってお帰りでした。」

つづく