大正自由主義教育の歴史に輝きを放つ実践が、和歌山県師範学校(和歌山大学教育学部の前身)の附属小学校で行われた。
1924(大正13)年10月より約5年間、尋常科の1年生と2年生(学齢6・7歳)に英語教育を実施したのである。
1924(大正13)年10月より約5年間、尋常科の1年生と2年生(学齢6・7歳)に英語教育を実施したのである。
小学校における英語(外国語)教育は、尋常科修了後の高等科では認められていたが、大正末期には全国の6~7%の学校が実施していたにすぎない。
法令上は尋常科の教科目に英語はなく、公立の尋常科で英語を教えていた例は、国際港をかかえる神戸市の小学校などにわずかに見いだせるだけである(『神戸小学校50年史』1935)。
その神戸小学校ですら、対象は尋常科3年生以上であった。
その神戸小学校ですら、対象は尋常科3年生以上であった。
したがって、和歌山師範附属小のように公立校で尋常科1・2年生に英語を教えた実践は、目下のところ全国に例をみない(江利川春雄『日本人は英語をどう学んできたか』第4章第3節参照)。
石口儀太郎
附属小で英語教育を中心的に担ったのは、訓導(現在の教諭)の石口儀太郎(1900~1970)である。
また1926(大正15)年には、弱冠26歳にして、附属小尋常科1年への教育実践を集大成した菊判・本文564頁の大冊『新尋一教育の実際』(教育研究会)を刊行した。
それには英語教育の実践も詳細に記録されている。
その後、石口は1927(昭和2)年9月に東京に移り、小学校勤務のかたわら、難関の中等教員免許(国語・漢文と修身・教育科)と高等教員免許(国語科)を取得している。
1945(昭和20)年5月には県立和歌山高等女学校の教諭となり、戦後の新制発足と同時に県立桐蔭高等学校に勤務、1952(昭和27)年4月からは県立古座高等学校の第2代校長を務めた。
1954(昭和29)年には和歌山県教育功労賞を受賞している。
ネイティブとの英語による授業
和歌山師範附属小では、1924(大正13)年9月に尋常科1・2年の保護者に対して英語履修希望の案内状を出している。
その結果、「実に申込殺到」となり、児童の大半にあたる合計174名が受講を申し込んだ。
その結果、「実に申込殺到」となり、児童の大半にあたる合計174名が受講を申し込んだ。
そのため、クラスを3クラスに分けたが、平均58名にも達し「1学級の人員甚だ過多、無理だとは百も承知しながら万難を排して決行する」。
授業は月曜・水曜・金曜の週3回で、各クラス30分ずつである。
内容は、家庭、学校、身体などに関する表現や、挨拶、日常会話などであった。
教具は、単語カード、文字カード、尋常小学国語読本用掛図などを使用しており、歌も取り入れている。
石口は、「耳の練習と発音のけいこには、唱歌が一等ききめ」があるとし、「幼学年児には、かんたんなる動作遊戯などをしながら教授をすすめることは、実に、だいじなこと」で、「これらを暗誦することが自然に英語のもつ調子を会得する助けとなる」としている。
こうした視聴覚教材を活用して英語の音やリズムに習熟させていく指導法は低学年児童には特に効果的で、今日でも盛んに用いられている。
授業の様子を、尋常2年男子を例にみてみよう(詳細は『新尋1教育の実際』435‐439頁)。
元気よく英語に取り組む児童の様子がうかがえる。
元気よく英語に取り組む児童の様子がうかがえる。
教師 (おじいさんの図をさして)Who is this?
児童 (1斉に)Grandfather. (教師、板書する。同様にmother, grandmother, sister, brotherと板書)
教師 (子供が元気なので)You are all very clear.とほめる。
教師(助手を通じて話させる) では今日はこれから、新しいことを勉強しましょう。あなた方は午後のあいさつは知っていますね。今日は朝のあいさつの仕方です。(それなら知ってると言う子供がいる)
児童 Good morningやろ先生。
教師 Good morning.と発音。板書。鞭でつくと児童等はGood morning, father.と読んでいく。
(にこにこしながら) Say it a little more quickly.
(にこにこしながら) Say it a little more quickly.
助手 機敏に……も少し速く言いなさい。
児童 Good morning, grand father. Good morning, father. Good morning, grandmother. ・・・・・
助手 先生には。
児童 Good morning, teacher.
指導にあたったワサ夫人は、「私の教授に対しても其の自発的な応答ぶりは実に、見上げたものであります」と児童を評価している。
附属小での英語授業の特徴
低学年児童に対する同校の授業実践は、児童の発達段階を考慮に入れ、教材内容、教具、指導法を熟慮したものであった。
英語教育のノウハウを学ぶために、石口は私立の帝塚山学院(大阪)や、成城小学校(東京)などを見学している。
附属小での英語授業の特徴は、以下の3点に総括できる。
(1)音声重視。
イギリス人教師による豊富な英語音声を与え、低学年の英語はまず耳から習い覚えるという方針を貫いている。その上で、「聞く→話す→読む→書く」の順序で指導を展開している。
イギリス人教師による豊富な英語音声を与え、低学年の英語はまず耳から習い覚えるという方針を貫いている。その上で、「聞く→話す→読む→書く」の順序で指導を展開している。
(2)実物と動作による教授の重視。
実物や絵を多用し、日本語を介さずに英語で表現させている。また、Come here.やStand up!など、英語に合わせて児童に行動させ、身体で英語を覚えさせている。
実物や絵を多用し、日本語を介さずに英語で表現させている。また、Come here.やStand up!など、英語に合わせて児童に行動させ、身体で英語を覚えさせている。
(3)保護者・児童とのコミュニケーション。
相互理解を図るために案内状やお知らせを配布し、授業への参観も実施することで、保護者や児童の意見をモニターし、信頼関係に努めている。
相互理解を図るために案内状やお知らせを配布し、授業への参観も実施することで、保護者や児童の意見をモニターし、信頼関係に努めている。
これらは、いずれも今日の小学校英語教育にも活かせる先駆的な実践である。
なお、姉妹校の和歌山女子師範学校附属小学校でも英語教育を実施していた。
その基本方針などは同附属小が1931(昭和6)年に刊行した『皇国教育』(湯川弘文社)に記述されているが、実施学年などは明らかではない。
その基本方針などは同附属小が1931(昭和6)年に刊行した『皇国教育』(湯川弘文社)に記述されているが、実施学年などは明らかではない。
戦時体制下での英語教育の中断
こうして、1924(大正13)年の秋から先駆的な英語教育を実施した和歌山附属小学校であったが、昭和に入ると軍国主義色が強まり、石口の東京転出もあって、尋常科での英語教育は5年ほどで中断した。
同校で尋常科1学年からの英語教育が再開したのは、敗戦の翌年の1946(昭和21)年からであった。
そのころ、街には進駐軍の米兵が闊歩し、ラジオからは「カムカム英語」が流れ、国民に一大英語ブームが巻き起こっていた。
同年2月3日付の『朝日新聞』には次のような記事がある。
「附属校で英語教育 和歌山師範附属国民校では戦前5年間に亙り英語教育を行ひ好成績ををさめていたが、誤てる軍国主義のため1時中断されてゐたところ終戦とともに復活、新学期から目先だけでなく文化的、平和的な人間を作るため1年生から簡単な会話を教へ漸次原書まで読めるやう教育することになつた 第1期は会話よりまづ耳の訓練、第2期はイソップ物語などの読物をテキストにして子供の興味を盛り教育、大体1週4時間の予定」
こうして、1920年代における附属小での英語教育の経験は、戦後に受け継がれることになったのである。
つづく