希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

和歌山県英語教育史(10)

玉置彌造の英語教育論と『写真で教へる英語』(その1)

1. はじめに

玉置彌造(たまき・やぞう:1879-1956)は、紀州和歌山県生まれの忘れられた英語教育家である。

学界では彼の生涯も業績も調査・研究されることがなかった。

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2000(平成12)年から開始された『和歌山県教育史』編纂事業の一環として、私は近代和歌山における英学と英語教育の歴史を調査した。

その過程で、玉置彌造が郷里の和歌山県有田郡箕島町で玉置日米研究社を主宰し、1933(昭和8)年には同地でユニークな教材『標準正音 写真で教へる英語 学校用・家庭用』を刊行するとともに、尾崎行雄鳩山一郎を含む幅広い人脈を活かして文部省に独自の「英語教授法改善意見」を提出するなど、注目すべき活動を展開していたことが明らかになった。

なお調査の途上で、玉置彌造の次男である玉置辨氏(1928年生、東京都在住)、三男の玉置多務氏(1929年生、ドイツ在住)、長女の足立静子氏(1932年生、神戸市在住)の所在が判明し、それぞれから貴重な情報・資料提供をいただいた。

以上の経緯をふまえて、玉置彌造の知られざる生涯と業績を明らかにしたい。

2. 玉置彌造の履歴と業績

玉置彌造の生年・没年などに関しては、玉置辨氏が戸籍謄本に基づく正確な情報を提供してくださった。
また、経歴・業績については辨・多務・静子の3氏から寄せられた証言から再構成したものである。

未解明の部分もあるが、概要は以下のとおり。

1879(明治12)年3月29日 和歌山県有田郡箕島町に玉置彌兵衛・貞(てい)本家の次男として出生。
  *和歌山高等小学校でストライキを実行。その後、和歌山尋常中学校に入学。

1896(明治29)年 東京高等商業学校(一橋大学の前身)入学。

1899(明治32)年頃 卒業直前に中退し、渡米。   
 滞米22年に及ぶ。

*米国ではホテルのボーイ、鉄道建設のためのメキシコ人労働者の周旋、アリゾナ州ジェロームでの経理の仕事などに就く。
日本人女性「さと」と写真結婚。長男・譲(Joe)をもうけるが、夫人とともに風土病(鉱毒か)で亡くす。

ソルトレイクを経てシカゴに長く住む。
米国のシカゴ大学を卒業したようだが未確認(実家への成績報告、卒業式の角帽写真があったという)。

その後、ニューヨークでNathan Benz商会(ドイツ系)に奉職。
日露戦争(1904-05)では鉱山従業員に日本への支持と拠金を募る。
滞米中にElson Encyclopedia(12巻ほどの百科事典)の編集員になり、日本・東洋に関する項目を担当。日本語・英語・スペイン語のtri-lingualだったという。

1921(大正10)年頃 米国より帰国、和歌山県有田郡箕島町に戻る。

和歌山県出身の池永庫(くら)と結婚、辨、多務、静子の2男1女をもうける。

*雑誌や新聞に投稿して文筆活動を展開。帰国後最初に公にした『日米選挙漫談』を尾崎行雄の推薦により浜口内閣の選挙革正審議会に提出。
また、尾崎を通じて『英語教授法改善意見』を文部省に提出(ともに自著『留学二十二年 アメリカを透視す』に所収されている)。

*郷里の有田郡箕島町255番地に玉置日米研究社を設立。
英語看板や英文説明書の作成、翻訳などの仕事。
10畳ほどの部屋で机に向かって仕事をし、夫人が清書等の仕事を手伝っていた。

1932(昭和7)年 玉置彌造著『留学二十二年 アメリカを透視す』刊行。
発行者・玉置彌造、発売・玉置日米研究社、1932(昭和7)年10月5日発行(同年10月25日第二版発行)、574ページ。

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*日米友好運動を展開。

1933(昭和8)年 玉置彌造著『標準正音 写真で教へる英語 学校用・家庭用』を刊行。
発行者・玉置彌造、発行所・玉置日米研究社、大売捌店・盛文館(大阪市西区)、1933(昭和8)年4月26日発行(同年5月16日第三版発行)。

1933(昭和8)年頃 子どもの教育のため、東京市九段中坂(靖国神社前)に転居、玉置英学院を開設。
「STOP LOOK」「やさしい英語を教へるところ」という小さな看板を出していたという。

1945(昭和20)年3月10日 東京大空襲で自宅焼失。
その後、和歌山に帰郷。

1946(昭和21)年頃 箕島の小学校で住民・子ども約50人に夜1時間程度、週3~4回、無料で英会話を指導。

1956(昭和31)年8月22日 郷里の箕島町で死去。享年77歳。

玉置は尾崎行雄(政治家)、鳩山一郎(文部大臣)、野村吉三郎(駐米大使)、正木ひろし(弁護士)、村田省三(大阪商船取締役・戦時内閣閣僚)らと親交があり、和歌山生まれの世界的な博物学者である南方熊楠とも手紙を交換していたという。

また、『玉置英和〔英語?〕会話百科辞典』などの執筆を進めていたが、実現しなかった。

『留学二十二年 アメリカを透視す』の序(松本真平執筆)には「次いで『実用英語と礼法』及び『玉置英和会話百科辞典』を公にすべく執筆中であることを聞き」とある。

有田市誌』(1974, p.1,188)には、「『アメリカを透視す』は、日米選挙漫談、英語教授法改善意見、外国地名呼称の誤謬を正せなどのほか、在米中氏が見聞した米人の生活や、アメリカの制度を紹介したもの、『写真で教へる英語』は氏独特の英語テキストである。のちに『玉置英語会話百科辞典』の著作に着手したが果たされなかった」とある。

【参考文献】
江利川春雄『日本人は英語をどう学んできたか』研究社、2008、第4章
江利川春雄「玉置彌造の英語教育論と『写真で教へる英語』」『東日本英学史研究』第6号 pp. 91-97、日本英学史学会東日本支部

つづく