希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

日本の外国語教育政策史点描(7)教育刷新委員会(1)

戦後の外国語教育政策を論ずるときに、最も重要なテーマが「学習指導要領」であることは言うまでもない。
当然、その方面の研究はおびただしく存在する。

しかし、戦後の民主主義的な教育政策を語る上で、どうしても検討しなければならない組織がある。
教育刷新委員会である。

そこで、教育刷新委員会における外国語教育政策の検討過程を考察してみよう。

その前に、前史から。

軍国主義教育を解体し、民主主義教育のための新しい制度設計をするために、1946(昭和21)年3月5日と6日に米国教育使節団が東京に到着した。

約1カ月にわたって日本側の教育関係者らと協議を重ね、戦前・戦中の反省をもとに新しい学校制度を創設し、教育課程の基準を示すCourse of Study(学習指導要領)を作成することになった。

翌1947(昭和22)年5月23日の「学校教育法施行規則」(文部省令第11号)では、高校までの「教育課程については、この節に定めるものの外、教育課程の基準として文部大臣が別に公示する(中略)学習指導要領によるものとする」と規定された。

また、連合国軍最高司令官総司令部GHQ)の要請を受け、新生日本の教育制度を改革するための内閣総理大臣の直属機関として「教育刷新委員会」が1946(昭和21)年8月1日に発足した。

委員長は安倍能成(よししげ)、副委員長は南原繁(なんばらしげる)で、ともに優れた学者だった。

教育刷新委員会は、学制改革教育基本法制定などの戦後民主主義教育改革の基本路線を審議し、1949(昭和24)年6月に教育刷新審議会と改称された。
同審議会は日本が独立した1952(昭和27)年6月に解消され、その後身として中央教育審議会中教審)が設置された。

教育刷新委員会での外国語教育方針策定(1948-49)

戦後の新制発足に伴い学習人口が急増した英語教育の舵取りをどうするか。
その切実な問題に答えるべく、教育刷新委員会は、総会や文化問題に関する事項を扱う第11特別委員会で、戦後初の本格的な外国語教育政策を議論した。

なお、本論考には、主に次の資料を用いた。

日本近代教育史料研究会編(1998)『教育刷新委員会教育刷新審議会会議録 第十巻第九特別委員会、第十特別委員会、第十一特別委員会』岩波書店

特別委員会の主査(委員長)は元文部次官の山崎匡輔で、委員のほとんどは、星野あい(津田塾大学長)、天野貞祐(元第一高等学校校長)、大内兵衛(元東京大学教授)などのトップレベルの学者たちから構成されていた。

戦後日本の外国語教育をめぐる政策の原型を形成した重要な議論であるから、やや詳細に主要議論を紹介したい。

議論は多岐にわたるが、主なテーマは、以下のように整理できる。

 ①小学校の外国語教育をどうするか。
 ②中学校の外国語教育は選択科目のままでよいのか。
 ③外国語の教授法をどうするか。
 ④外国語教員の再教育をどうするか。
 ⑤学習指導要領をどう改訂するか。
 ⑥上級学校の入学試験の英語問題をどう改善するか。

1948(昭和23)年4月16日に開催された教育刷新委員会第65回総会では、外国語教育研究に関する新しい組織作りの問題が議論された。
速記録 によれば、担当部局である文部省教科書局の稲田局長は、以下の内容の発言を行った。

1947(昭和22)年の夏ごろ、文部省教科書局所轄の外国語教育研究委員会〔「外国語教育調査委員会」との記載もあり〕を設置し、約10名の専門研究者や教員に委嘱して、「小学校においても外国語を教ゆるべきか、児童や生徒に希望或いは社会的必要というような点、或いは又いろいろ教育技術というような点(中略)果たして選択科目でいいか、或いはもっと必修とすべきか」や、教授すべき内容、教え方、時数等について議論を行った。

その際に現実問題として浮上したのが「入学試験の問題」だった。
「如何に下の学校で新らしい教育をやっても入学試験において、例えば従来のごとく翻訳中心でありましたならば、自然下の学習がそれに引摺られて行く」との認識の下に、委員会では入試の在り方についても議論を重ねた。

平成の今とまったく変わらない難問である。

1948(昭和23)年11月5日の第85回総会では、外国語教育の在り方をめぐる一段と踏み込んだ議論が展開された 。

文部省教科書局課長の大島文義は、まず小学校の教育課程に外国語を入れない理由について、以下のように説明している。

「小学校時代の児童の心身の発達、国語習得の知識及び技能、児童の学習負担などの問題を考えまして、外国語を必須教科としてもまた選択教科としても採上げておらない次第でございます。尚将来の問題といたしまして、成る程外国語の学習というものは、幼児から始める程上達が早いということもございますが、こういうような点を含めましてできるだけ慎重に考慮して、将来の問題を決定して行きたいと思っております。」

今日の小学校英語問題を考える上で、再吟味すべき発言であろう。

中学校で外国語選択科目とした理由は、「生徒の個性やその土地の要求に対しておのずから強弱がある」からだと述べている。

大部分の学校が英語のみを教えている理由については、「学校予算とか、教室の数、教師の定員及び英語以外の教師がいない」という事情を挙げている。

中学校の外国語の授業時数については、「言語学習の能率を上げるという意味から申しまして四時間乃至六時間に変更いたしたい(中略)最小単位を四時間にするというようなところに持って行きたい」と述べている。

教授法に関しては、「生きたことばとしての運用能力を養うために、これまでのような翻訳式教授法を改めまして、耳と口とによるオーラル・メソッドに切り換えようと考えるのでございます」とした。

戦前にパーマーが提唱したオーラル・メソッドが、戦後直後のこの時期にも政府公認の教授法になっていた点が注目される。

オーラル・メソッドは、1922(大正11)年に来日したハロルド・パーマー(Harold E. Palmer 1877~1949)が提唱した教授法で、もっぱら英語によって授業を進めるDirect methodの一種であり、聞く、話すといった音声指導に比重を置くものだった。

「授業は英語で」は、すでに1948(昭和23)に議論され、方針化されようとしていたのである。

学習指導要領の改訂については、「もっと詳しく教師に役立つものといたしますために、去る九月〔1948年〕に実際家及び専門家凡そ三十名からなる学習指導要領委員会を設けて新しいコース・オブ・スタディーの立案に当たっておりまして、これが来春までには一応完成させる予定」だとした。

しかし、公式に発表されたのは1951(昭和26)年、刊行されたのは翌年だった。

「外国語教育刷新委員会」については、「教育刷新委員を初め教師学者外交官実業家凡そ三十名のお方々からなる委員会設置の立案」をした。

これについては文部省事務官の宍戸良平が経過報告しているが、残念ながら速記が停止されたため内容はわからない。

なお、宍戸良平(1914-1999)は、東京高等師範学校文科第三部(英語科)を経て東京文理科大学英語学英文学専攻を1939(昭和14)年に卒業し、文部省の事務官となった。戦時下の中等学校用準国定教科書『英語』(1944)の編集にも桜井役(教学官)とともに参画した。戦後直後には「外国語ニ関スル教科用図書ノ編輯」担当者として新制中学校用のLet’s Learn English(1947)の作成に携わった。その後、文部省の教科調査官や視学官などを歴任し、1975(昭和50)年に退職するまでの約30年間にわたり、7回の中学校、高等学校の学習指導要領の改訂に従事するなど、戦後の外国語教育行政に多大な影響を与えた。

さて、外国語教育刷新上の困難点について、大島課長は以下のような指摘を行っている。

 ①特に中学校で専門の外国語教師が非常に不足し、有資格者は10%以下にすぎない。
 ②外国語教師の大部分が、生きたことばとしての運用能力に乏しい。
 ③教師に生きたことばの再教育をしたいが、地方には指導者がほとんどいない。
 ④教員養成の大学が文学・語学を重視して、生きたことばの学習が度外視されかねない。
 ⑤外国人の著作権問題が未解決で、教科書に新鮮な教材を盛り込めない。補助教材も足りない。
 ⑥辞書・参考書のための用紙割当が得られず、量的に不足している。
 ⑦英語教材のレコードがほとんど出ていない。
 ⑧ラジオの学校教育放送で外国語を取り上げてほしい。
 ⑨外国人教師に大量に来てもらいたい。
 ⑩外国語教員を留学させてほしい。

この10の「困難点」を見ると、当時の時代的な制約とともに、今なお課題であり続けていつ問題も含まれている。

これらの課題を克服するための方針を確立すべく、次回の委員会には英語界の重鎮を招致する。

市河三喜と斎藤勇(たけし)(ともに東京帝大名誉教授)である。

(つづく)