希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

海軍兵学校の英語教育(聴き取り調査)

今年は1945年の敗戦から70年。

戦後英語教育の意味を知るためには、戦前・戦中の英語教育を知らなければなりません。

そのためには、まず当時の資料に徹底して肉薄すること。
3月11日には、念願だった奈良県立図書館に行き、「戦争体験文庫」などで終日資料調査をしました。

もう一つは、関係者への聴き取り。

3月2日に、海軍兵学校で学ばれた水野丈夫先生(東大名誉教授)から、当時の様子をうかがいました。

場所は東京池袋のリビエラ立教大学のすぐ横です。

ご一緒したのは、オーラルヒストリー研究の名手でもある鳥飼玖美子さん(順天堂大学特任教授:写真右)、教育史研究の大家である寺崎昌男先生(東大名誉教授:中座されたので写真には写っていません)、それに水沼文平氏(中央教育研究所所長:後列左)と同研究所のスタッフです。

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水野丈夫先生(写真中央)は海軍兵学校76期生として1944(昭和19)年10月9日に、広島県江田島海軍兵学校大原分校に入校しました。

兵学校は海軍士官を養成する学校で、旧制高校と並び、トップレベルの生徒が集まる学校でした。
76期の競争率は15~16倍だったとのことです。

第二次太平洋戦争末期で修業時間が短縮され、一年分の授業を半年でやり、二号生徒(2年生)に進級しました。

授業は数学、力学、物理学など普通学が中心でした。
生徒が落ちこぼれないよう、できない生徒を教官が自習時間に呼んで特訓し、進級させたそうです。

このころ、一般の中学校などでは勤労動員で、授業どころではありませんでした。
しかし、海軍兵学校では高度な授業が続いていたのです。

以下は、英語教育に絞って、水野先生からお聞きした話を紹介しましょう。

兵学校ではドイツ語、フランス語、中国語なども長らく教えていましたが、水野先生が入校された大戦末期の語学は英語だけでした。

その英語も、だんだん時間が削減されていき、76期は週1時間だけでした。

辞書は英和辞典ではなく、研究社の『簡易英英辞典(Kenkyusha's Simplified English Dictionary: English through English)』(1938)を与えられました。

73期ごろまでは英文和訳をやっていたようですが、水野さんたちの英語の授業は和訳なしで、英語による授業でした。

英英辞典の使用も、英語の直読直解も、英文和訳を嫌った井上成美校長の方針が色濃く残っていたためだと思うとのことです。

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ここで、少し解説します。

井上成美(1889-1975)が兵学校校長在任中(1942.11~1944.8)に教官に配布した教育指針である「教育漫語」(1943年1月9日)のなかに「外国語教育に就て」があります(井上成美伝刊行会編『井上成美伝』資料編、190~191頁)。

そこには、以下の方針が書かれています。

(一)兵学校の英語教育は文法を基礎とし骨幹とすべし

(二)英語は頭より読み意味の分ることを目標とすべし。英文を和訳せしむるは英語の「センス」を養ふに害あり、和訳に力を入るるは英語の稽古なるか日本語の稽古なるか分らざるやうになるべし。和訳は英語を読み乍ら英語にて考ふることを妨げ反対に英語を読み乍ら日本語にて考ふることを強ふるを以てなり

(三)常用語は徹底的に反復活用練習せしむべし

(四)常用語に接しては其のword familyを集めしめ語変化に対する「センス」を養ふべし

(五)英文和訳の害あるが如く英語の単語を無理に日本語に置き替え訳するは百害ありて一利なし。英語の「service」の如き語を日本語に正確に訳し得ざるは日本の「わび」とか「さび」とか云ふ幽玄なる語を英語に訳し得ざると同じ

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ただし、海軍予備学生の教官の中には日本語を使って授業を行った人もいたそうです。

水野さんの担当は平賀春二先生(戦後は広島大学教授)で、徹底的に英語だけで授業をされ、生徒がどうしてもわからないときだけ少し日本語を使ったそうです。

平賀先生の英語の授業は厳しく、できないと叱られました。

しかし、水野さんは平賀先生の授業が面白く、エンジョイしていました。
聴いていると先生の英語がわかったそうです。

平賀先生は生徒の目を見ていて、解っているか否かを見抜き、当てられた生徒は英語で答えなければならなかったそうです。

発音は直されませんでしたが、先生は生徒に「お前の英語では通じない」とか、「よくそんな英語で兵学校に受かったな」と言われ、生徒は「私もそう思っております」などと英語で返答したそうです。

平賀先生は「英語は頭から理解せよ。後ろからひっくり返してはいけない」と言われ、1日に何ページも進んだこともあったそうです。

あるとき、呉の空襲の際に米軍機が撃墜され、パラシュートで降りてきた米兵に尋問するために兵学校の予備学生教官が出向きました。

しかし、米兵の英語が聞き取れなかったので、予備学生教官も生徒も平賀先生から叱られたそうです。

米英は、尋問をそらすために、わざと聞き取れないような発音をしたのかもしれませんが。

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このように、平賀先生の授業の様子については、私が『近代日本の英語科教育史』(2006)で書いたこととは違う証言を得ることができました。

当時の私の文献調査では、平賀先生は英語で授業をすることに難色を示していたと書かれていたのですが、元生徒である水野先生の証言で、これが誤りであることがわかりました。

謹んで訂正いたします。

水野先生からは原爆体験や、戦後の一高入学にまつわる面白いお話しなどもうかがいましたが、それはまた別の機会に。

鳥飼さんの御父様も海軍経理学校の出身とのことで、海軍にはご縁があります。

聴き取り調査のあとは、楽しい夕食会でした。

新春の季節感がたっぷりの料理に舌鼓をうちながら、なおも歓談が続きました。

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