8月12日、フジテレビ系列の「あしたのニュース」の特集「戦争と英語教育」が放映されました。
拙著『英語教科書は<戦争>をどう教えてきたか』と、その内容を伝えた朝日新聞(東京本社版)7月18日付夕刊の記事をご覧になった番組スタッフから取材依頼がありました。
おかげで、敬愛するお2人のお顔を番組で拝見することができました。
短い特集でしたので「戦争と英語教育」の一端に触れただけでしたが、もっと詳しくお知りになりたい方は、『英語教科書は<戦争>をどう教えてきたか』(研究社)をお読みいただければ幸いです。
以下、FNNのサイトより、特集の内容をご紹介します。
戦後70年 英語教育の歴史から、「戦争」に迫りました
戦後70年を鍵に、今を読み解くシリーズ企画「みんなで考える ニッポンはなぜ戦争をしたのか」。海外の理解や国際交流に欠かせない英語。
日本での英語教育は、明治時代以降に本格化しましたが、教科書は、徐々に戦意高揚の色が濃い内容となりました。
日本での英語教育は、明治時代以降に本格化しましたが、教科書は、徐々に戦意高揚の色が濃い内容となりました。
一方、街から英語が消えた太平洋戦争中、ある学校では、英語教育が続けられた事実もあります。
その歴史から、戦争に迫ります。
その歴史から、戦争に迫ります。
英語で書かれた古びた表紙。
中を開くと、「大砲」と「戦車」の英単語が並んでいた。
中を開くと、「大砲」と「戦車」の英単語が並んでいた。
ある例文には、「Yes, I will die for my country.」、国のために死ぬという表現があった。
これらは、太平洋戦争開戦の前後に使用されていた英語の教科書。
明治時代に本格的に始まった英語教育。
戦争に関わる表現が登場したのは、日清戦争に勝利したころ。
当時の教科書には、万歳で出迎えられる帰還兵の絵が描かれている。
しかし、英語を取り巻く環境は、太平洋戦争へ向かうにつれて変化していく。
英語は「敵性語」と見なされるようになり、街から英語の看板やレコードが、次々と消えていった。
戦時中に英語教育を受けた高林 茂さん(85)は「(髪の)パーマっていう言葉自体も英語ですから、使っちゃいけない。野球のストライクも、『よし』とかね」と話した。
高林さんは「当時、戦っていた敵国のイギリス、アメリカの言葉を勉強するということについて、海軍当局は、何の不思議もなく、英語を勉強しろと」と話した。
「敵性語」と、海軍人の教養としての英語。
一般国民の生活から排除された一方、エリート教育では続けられたという、2つの側面があった。
一般国民の生活から排除された一方、エリート教育では続けられたという、2つの側面があった。
一般の教室に英語が戻ってきた戦後、英語教師として教壇に立った祐本寿男さん(92)。
初めての授業で、子どもたちに、ある質問をしたという。
祐本さんは「『英語の好きな人?』って、1人も手が挙がらない。
『英語の嫌いな人?』って言ったら、全員がバーッと勢いよく、元気よく手を挙げた」と話した。
「英語が嫌い」と話す子どもたちは、学ぶ理由を「戦争に負けたから」と答えた。
子どもたちに変化が現れたのは、1週間もたたないころだった。
祐本さんは「教室へ行ったら、『英語好きでーす!』と、みんな言ってくれた。
だからわたしは、うれしさが込み上げてきた」と話した。
祐本さんは「教室へ行ったら、『英語好きでーす!』と、みんな言ってくれた。
だからわたしは、うれしさが込み上げてきた」と話した。
国境を越えてつながる喜び。
英語教育が本来の姿を取り戻した瞬間だった。
英語教育が本来の姿を取り戻した瞬間だった。
日本は、なぜ戦争をしたのか。
当時の授業の記録には「視界の狭さ、慢心、うぬぼれ」と書かれていた。
当時の授業の記録には「視界の狭さ、慢心、うぬぼれ」と書かれていた。
祐本さんは「英語を勉強するということは、グローバルな世界市民としての、欠かせられない教養じゃないでしょうか。
世界を知らないために、陸軍の方が暴走しちゃったんじゃないかと」と話した。