希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

戦前に英語を学ぶことのできた割合(ご質問に答えて)

「英語教育史料」に連載中の「英作文教科書の歴史(2)」に、「昔の受験生」さんから以下のご質問とご意見をいただきました。

「ところで『南日』で学んでいたのは,当時の就学人口のどれくらいの割合になるのでしょうか。「和」を内化させ,その後の指導的位置に立つことになった人びとはいわゆるエリートということになるのかと思います。/ というのも「易から難へ」という学習原理が発想され登場する以前の学習観であったように思われるからです。」

戦前の英語参考書(英語教育全般でもありますが)を考える上で、とても重要なご質問ですので、こちらで回答させていただきます。
なお、以下の記述は拙著『近代日本の英語科教育史』の第2章の記述に基づいています。

結論的には、戦前に英語が必修だった中学校やほぼ必修だった高等女学校に進学できたのは、ほとんどが経済的に恵まれ、成績も優秀だったエリート層でした。

ただ、時代が下るにつれて、一般庶民の子弟も高等小学校、実業学校、実業補習学校、青年学校などのいわゆる「傍系」ルートに進学することが増え、それらの学校でも英語を課す場合があった(実業学校ではほとんど課していた)ので、徐々に英語教育が大衆化していきました。
以下に数字を挙げてご説明します。

戦前に英語を学ぶことのできた人の割合と社会階層

 「正系」のエリート・コースだった中学校に進むことのできる層はきわめて限られていた。
 小学校入学者数に占める中学校入学者数の割合は、20世紀初頭の1901(明治34)年度から1909(明治42)年度の場合で最低2.8%、最高でも3.8%にすぎなかった 。

 社会階層的にも、明治期には士族出身者の比重が高かった。1888(明治21)年の時点で、全国47の尋常中学校で士族出身者の占める割合は51%だった(10年後には32%) 。
 また、全人口に占める士族の割合が5~6%だった時期に、1885(明治18)年の東京大学卒業者のうち士族出身者は70%に達していた。

 他方で、一般庶民階層がより多く通う乙種実業学校や高等小学校(1908年以降)を加えるならば、中等レベルの学校の在学率は1900(明治33)年に該当年齢の2.9%、1905(明治38)年に4.3%、1910(明治43)年には15.9%に達した 。

 つまり、中学校と同年齢層の職業系諸学校の就学者を視野に入れるならば、中等教育の大衆化過程の様相が一変するのである。
 *なお、高等小学校でも都市部を中心に、英語を教える学校が若干あった(ピーク時で1割程度)。その他の諸学校での英語の開設率については拙著参照。

 中学校および高等女学校のエリート・コース的な性格は、基本的には戦後の新制発足(1947)まで踏襲された。どちらも成績優秀で、経済的に恵まれた家庭の指定が多く入学していたのである。

 1936(昭和11)年3月時点での中等学校への進学状況を調査した文部省教育調査部『尋常小学校卒業者ノ動向ニ関スル調査』(1938)によれば、進路先で圧倒的に多いのが高等小学校で、全国平均で男子の68.3%、女子の51.6%に達している。他方で、中学校は11.9%、高等女学校は20.9%にすぎない(図2-1)。

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 学業成績をみると、尋常小学校時代に4段階で最優秀の「甲」レベルだった生徒の占める割合は、中学校が75.8%と最も多く、次いで高等女学校が68.9%、実業学校(男子)が68.5%である。

これに対して、高等小学校(男子)では21.6%、青年学校(男子)では9.2%にすぎない(図2-2)。

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 また、家庭の資産が「上」に区分された生徒の割合をみると、やはり中学校が27.6%と最も多く、次いで高等女学校が23.7%、実業学校(男子)が18.6%である。

これに対して、高等小学校(男子)では6.0%、青年学校(男子)では1.5%にすぎず、逆に資産が「下」の割合は、中学校が0.8%、高等女学校が1.3%であるのに対して、高等小学校は23.5%、青年学校は40.2%にも達した(図2-3)。

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このように、「いわゆる中等教育機会(中学校、高等女学校、実業学校)から、資産下(下位約4分の1)の児童がほぼ完全に遮断されていた」(菊池城司) のである。