希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

戦時下における女学生の英語学習記録を入手

韓国のソウルでの大学院生との研修旅行から戻ると、資料が届いていた。

太平洋戦争期に高等女学校の生徒が書き残した日記帳の原本である。

内容を分析した限りでは、埼玉県立熊谷高等女学校(熊谷女子高等学校の前身)に通っていた生徒のものだと思われる。
熊谷といえば、私の出身地だ。運命の出会い。

時期的には、1938(昭和13)年4月29日から1942(昭和年17)年12月6日まで。
小学校5年生から高等女学校の3年生までだと思われる。
ただし、連続的に記載されているのは、高等女学校1年生だと思われる1940(昭和15)年9月1日(日)から9月16日までと、3年生だと思われる1942年9月1日から12月6日まで。

教師に提出したのか、それらしいサインの跡がある。

ところどころに英語学習に関する記載があるので、少し紹介したい。

1942(昭和17)年11月30日(月)
水曜日に英語の考査をする事となったので今日から又やらなければならなかった。此の前の時は教課書のは出来たと思ってゐたら思の外間違ってゐたので今度は一字一字しっかりやった。応用がどんなのが出るかと思ふと本当に心配です。

同年12月1日(火)
明日が英語の考査なので夜その方をすこしやった。いくらかおぼつかない所もあったが大体はやくす事が出来た。

同12月2日(水)
英語の時間は考査でしたが、教課書の方は割合によかったと思ったが、応用問題の方を間違へてしまった。感じると言ふのを足になんてやくしたのが自分ながらおもしろくて仕方がない。
私はやっぱり実力がないのかと思ふと本当につまらなくなって来る。

といった記述がある。

考査では、おそらくfeelをfeetと勘違いして「足」と訳してしまったのだろうが、「自分ながらおもしろくて仕方がない」と書くあたりは、やはり現在の中学3年生に相当する女学生らしく、微笑ましい。

考査は和訳が中心で、教科書の本文だけでなく「応用問題」が出たようだ。

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ところで、太平洋戦争下の学校では、敵国語である英語が禁圧されたとの思い込みがけっこう流布している。

たしかに1937(昭和12)年の日中全面戦争のころから戦時色が強まり、駅の看板の英語表記が消されたりもした。

しかし、エリートコースだった旧制中学校では、太平洋戦争下でも英語を教える学校がほとんどだった。

高等女学校の場合、文部省は1942(昭和17)年度以降、教科を基本教科と増課教科とに分け、基本教科は国民科、理数科、家政科(家政・育児・保健・被服)、体錬科(体操・武道・教練)および芸能科とし、増課教科は家政科、実業科(農業・商業)、外国語科とした。
外国語科を増課する場合はその他の増課教科と選択履修させた。

1942(昭和17)年7月8日に、文部省は「高等女学校ニ於ケル学科目ノ臨時取扱ニ関スル件」を通牒し、外国語は随意科目とし、週3時間以下として課外での授業も禁止した。

この方針に沿い、たとえば石川県では英語は同年の2学期から実科女学校では全面禁止、高等女学校、女子職業学校では一学年では課すものの難解な作文、会話をさけ、実用的なものを教授し、二学年以上は随意とした。その結果、津幡高女では英語に代り農業科目が実施され、英語担当教師は農作業監督者となった(『石川県教育史』第2巻、pp.523-524)。

こんな時代状況の下での高等女学校における英語学習記録は、やはり貴重だ。