希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

和歌山県英語教育史(6)

和歌山の高等小学校における英語教育

高等小学校の英語科

小学校における英語教育の歴史は明治初年に遡るが、その本格的な実施は鹿鳴館(1883:明治16年開館)に象徴される欧化主義の時代からである。

1884(明治17)年12月の『郵便報知』には「全国小学校に英語科を新設」と題した記事が登場している。

1886(明治19)年に高等小学校制度が発足すると、週3時間程度の英語を課す学校が多数を占めたが、なかには尋常中学校なみに週6~7時間を英語に割く学校すらあった。

高等小学校における英語は、必修ではなく学校長が設置を求める加設科目であり、一般には商工業都市などで加設率が高く、男子の履修割合が高かった(江利川春雄『近代日本の英語科教育史』第5章「高等小学校の英語科教育」参照)。

和歌山県小学校英語熱 和歌山県では、1888(明治21)年3月に県令で小学校授業規則を改正し、高等小学校の各学年に英語を週3時間ずつ加設することを通達している(『紀伊教育雑誌』第11号)。

その内容は、1年が「発音法、綴字、字習〔習字〕」、2年が「発音法、綴字、字習、読方及訳語」、3年が「綴字、字習、読方及訳語」、4年が「書取、会話、読方及訳語」であった。

当時の英語学習は「綴字」から始めることが一般的だったが、和歌山県では「発音法」から始めており、先駆的である。

使用教科書は、久野英吉の『スペルリング綴字書』(1~3年)、英国舶来の『ロングマンス習字帖』ないし米国舶来の『スペンセリアン習字帖』(1~3年)、それに米国舶来の『ニューナショナルリーダー』(2~4年生に巻1~3を配当)であった。

しかし、こうした県の通達以前に英語教育を開始していた高等小学校もあった。
たとえば、紀伊半島南端に位置する串本村(現・串本町)の串本尋常高等小学校では、1886(明治19)年10月の「ノルマントン号事件」を契機に英語教育に踏み切った。

この海難事故では英国人乗組員14名が串本村に漂着したが、村には英語を解する者が1人もおらず、あたかも「鳥語蛙鳴」を聞くに等しかったという。

その反省と、折からの英語ブームのなかで、1887(明治20)年1月より石原綱蔵を教師に壮年者のための英語教育を開始し、のちには小学校の正式な科目として英語を加設した。

この他にも、1887(明治20)年9月には東牟婁郡下里村(現・那智勝浦町)で戸長や教員有志が「同志英学会」を組織し、翌10月には新宮小学校の高等科でも英語教育を開始している。

この時期の『紀伊教育会雑誌』をみると、たとえば湯浅高等小学校では「英語科は訓導岡本藤次郎氏の勉強に依り非常の進歩を呈し現にスウイントン氏万国史及ナショナルリーダー第4を講習するの生徒もありと云ふ」(第15号・明治21年8月)と報じられている。

この「ナショナルリーダー」とは明治20~30年代に小中学校で使用された代表的な英語教科書で、その第4巻の語彙は約6.500語水準であるから、現在の難関大学の入試問題レベルの英文を読んでいたことになる。

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こうした英語を教えることのできる人材を確保することが困難な地域も多く、たとえば西牟婁郡では富田小学校の訓導らが紀伊教育会に英語教師の招聘を依頼している(同第20号・明治22年1月)。

しかし、1890(明治23)年ごろからは全国的な小学校英語科廃止論に見舞われ、英語ブームは急速に下火になっていった。
この年の10月には「教育勅語」が発布され、欧化主義から一転して国家主義が強まったのである。

同年10月に改正された小学校令では、高等小学校の教科に外国語を加えるときは「将来ノ生活上其知識ヲ要スル児童ノ多キ場合ニ限ル」として、加設の条件を厳しくした。

こうして、この年には和歌山県下でも「小学校に於ては女児の為に英語科を廃し裁縫科の時間を増す」べきだといった主張がみられる(『紀伊教育会雑誌』第37号・明治23年7月)。

紀伊教育会那珂郡支会では、1891(明治24)年2月の総会で「本郡高等小学校ニ於テ英語科ヲ除去スルヲ可トスルハ本会ノ意見ナリ」と決定している(同第43号、明治24年3月)。

高等小学校の英語教育が再び活性化したのは明治30年代からである。

この点で注目されるのは、和歌山県における小学校の英語加設率が、おおむね全国の平均よりも高かったことである。

小学校の加設科目統計が『文部省年報』に掲載されるのは1900(明治33)年度以降だが、1911(明治44)年度までの12年間を比較すると、全国平均が5.8%であるのに対して、和歌山県は7.1%であった。

時代は下って1939(昭和14)年の時点での英語加設率をみても、和歌山県は大阪、愛知、東京、神奈川、静岡に次いで全国6位の高さだった。

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和歌山県の英語熱が高かった一因には、北米を中心とする海外移民が全国随一だったことが挙げられよう。

県下の高等小学校における英語授業の実情は、1906(明治39)年3月の授業を再現した東本惣太郎による「高等科第1学年英語科教案」(『紀伊教育』第147号)からその一端を窺い知ることができる。

それによれば、当時採択率第1位だった神田乃武の『小学英語読本(改訂版)』に従って、日本語と英語の対訳方式を中心とし、その上で発音、読方、書取などを総合的に指導している。
なお、〔 〕内は引用者の補足である。

一、本を出さしむ Open it, page 25
二、〔教科書のローマ字文〕1.2.3.4.の下読を命ず〔1.Koko e oide nasai. 2.To no tokoro e oide nasai. 3.To wo oake nasai. 4.Kotchi e okaeri nasai. Anata no seki e okaeri nasai.〕
三、二三生に読ましめ後今日は之等を英訳せんとす。
四、「ココヘオイデナサイ」之はすでに学びたるならん如何二三生に云はしめ後板上に書かしむ。〔Come here.〕書方につき批評訂正
五、戸の字を教ゆ。d-o-o-r door 斉唱
六、然らば「戸の処へ御いでなさい」如何に書けばよきか数生に云はしめ to の字教授(発音に注意して)
七、右板書せしむ〔Go to the door〕
八、「あけよ」とは英語にて如何。然らば戸をあけよとは如何〔Open the door.〕
九、閉ぢよとは如何〔Shut it.〕  八九両項板書(書方批評訂正)
十、汝の席へ帰れとは如何〔Go back to your seat.〕
十一、コッチへ御帰りなさい教授〔Come back.〕
十二、範読一回
十三、読話練習
十四、実施せしむ〔動作を伴った活動か?〕
十五、読方二回  時間を与えて文字を覚えしめ草書練習
十六、書取

明治期の小学校用英語教科書には和歌山県関係者も少なからず貢献していた。
松島剛は1888(明治21)年に文部省検定を受けたThe Elementary National Spelling Bookなどを編纂している。

陸軍教授だった崎山元吉の『英語教授書』(全2巻)は1895(明治28)年に検定認可を受け、日本人が編纂したもっとも早期の英文法教科書として好評を博した。
崎山は姉妹編の『英語初歩教授書』(1896)も著した。

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つづく