希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

学校文法と和訳の意味を再考しよう

文部省(文科省)は、1978年告示の「高校学習指導要領」から科目としての英文法を消し、2009年告示の指導要領では、ついにライティング(英作文)もリーディング(読解)をも消した。

おまけに、「授業は英語で行うことを基本とする」のだという。

こうした方針の根本的な誤りが、ESL第二言語としての英語)とEFL(外国語としての英語)とを取り違えている点にあることは、これまでも繰り返し述べてきた。
過去ログ:「授業は英語で行う」への異論
 および、拙稿『英語教育のポリティクス:競争から協同へ』

日常生活で英語を必要としないEFL環境にある日本人。
その日本人にふさわしい学習法はなにか。

単なる「思いつき」の改革ではなく、もう一度、根本から考え直す必要があるのではないだろうか。

そのために、明治以降の英語学習史を正確に振り返り、その成果と課題を見きわめた上での方針を出すべきではないか。

そうした問題意識で、本ブログでも明治期からの英語参考書を根気強く読み直してきた。
連載は英文解釈編の「懐かしの英語参考書」が31回、「英作文参考書の歴史」が19回で、合計50回に達した。

まだまだ道は長いが、正しい未来予想図を描くために、正しく過去を総括したい。

とはいえ、のんびりもしていられない。

僕の「懐かしの英語参考書」を読んでくれた大津由紀雄さん(慶應義塾大)の呼びかけに、東大の斎藤兆史さんと僕が乗っかる形で、既報の通り、7月11日(日曜日)に慶應義塾大学で、シンポジウム「英文解釈法再考:いま、なぜ英文解釈法か?」(仮題)を開催することになってしまったからだ。

なんせ、大津さんは仕事が速い。それに、お祭りが好き! (^_^;)

「英文解釈」と、それを支える「学校英文法」は、本当に古くさい、役立たずのものなのだろうか。

断じて「NO!」だということを、証明したい。

そんな思いで書棚を眺めていたら、川本皓嗣井上健編『翻訳の方法』東京大学出版会、1997)が目に入った。

久しぶりに読み直すと、ぐいぐい引きつけるものがある。
出色の論文集だ。

ここでは、川本皓嗣さんの巻頭論文「序章―日本人の英語力」から、以下の文章を紹介しよう。

「学校文法と訳読に重点を置くという方式は、限られた時間内で英語の初歩をしっかり学ぶだけではなく、その上で練習を積めば、やがてまともな英語が使えるようになるための基礎を、最短距離で習得できるように工夫されたものです。」(5頁)

見事だ。

最後の「最短距離で習得できるように工夫されたもの」という部分を、僕は50回におよぶ英語参考書の歴史的考察で証明しつつある。

文法や訳読は決してゴールではない。
大事なことは、「その上で練習を積めば、やがてまともな英語が使えるようになるための基礎」だということである。

学習指導要領は、その「基礎」を破壊してきた(現在完了進行形)。
現場教員は、時に地下非合法で、必死で抵抗してきた(現在完了進行形)。

地下から地上に出て、権力を掌握する日まで闘おう!
(この言い方、古いかな~)