希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

新学習指導要領にどう対処するか(4)

高校の新学習指導要領は、「授業は英語で」の文言に象徴されるように、「和訳」を極端に嫌っています。
指導要領解説でも、「訳読によらず」と明記されています。

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しかし、高校生の学習にとって、和訳は決して悪いことではありません。
そもそも、訳読ではなく「多読」を重ねれば、本当に読解力がつくのでしょうか。

この点に関して、伊藤和夫は次のように述べています。

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伊藤が駿台予備学校で教えた当時の生徒たちは、東大受験者を多く含む優秀な受験生たちでした。
そうした高い学力層を相手にしていた伊藤でさえ、上のような言葉を残していることの意味をよく考える必要があります。

後半で、
「訳読法批判の結果、現実にはわれわれは方法以前、つまり、『読書百遍、義おのずから通ず』の域に退行したのではないだろうか。最近の文法軽視の傾向と相まって、現在の英語教育の成果はかつての訳読法中心時代のレベルにも達していないのではないか」
と語っている点も重要です。

この点を補足する伊藤の見解として、『英文法教室』(1979)の「はしがき」の言葉を引用しておきましょう。
この本が出た前年の1978年に高校の学習指導要領が改訂され、英文法の検定教科書が消えました。そうした時代背景の下で書かれたもので、伊藤の怒りを感じます。

言葉の学習は、何よりもまずそれぞれの言語に固有のロゴスを身につけることである。高校生の頭脳はすでに記憶力のピークを越え、反面理解力と分析力が伸張していることを考えれば、方法性を欠いた反復の中からひとりでに言葉が身につくことを期待しても効果は薄い。英米人は文法を知らなくても英語が使えるのだから日本の学生にも文法は無用のはずだというのは、母国語の学習と外国語のそれとを混同した暴論である。文法を追放することは、英語学習からその科学性を奪い、所詮は不可能な幼児期への退行を強いることなのである。基礎の構築が不完全なために、ある線で停滞してどうしても先へ進めぬ受験生を日々目にしている筆者が、現在声を大にして叫びたいのは文法の復権であり、新たな酒を入れるための新たな革袋の必要である」

いつもながら、みごとです。

もっと言えば、訳読も禁じ、「授業は英語で」と言うならば、日本人の英語教員はみなクビにして、英語圏出身のネイティブ教員だけに英語教育を委ねようということに通じます。

これは英語力はもとより、日本語力をも劣化させる危険きわまりない方針です。
アメリカ帝国主義の手先」とは言いませんが、日本の英語教育の根幹を破壊しかねない暴論です。

さて、「授業は英語で」の根本的な誤りを考えてみましょう。

この方針は、(1)ESLとEFLの混同と、(2)BICSとCALPの混同という根源的で致命的な欠陥を持っています。

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英語が日常生活にあふれている英語を母語とする環境や、「第二言語としての英語」(ESL: English as a Second Language)の環境であれば、学習動機も高く、文法を明示的・体系的に教えなくても膨大なインプットによって経験的に英語が使えるようになるでしょう。

しかし、日本のように日常生活に英語を必要としない
(1)「外国語としての英語」(EFL: English as a Foreign Language)の環境で、
(2)言語構造が大きく異なり、
(3)豊かな日本語力を有する10代に達した学習者が、
(4)40人もの大教室で、
(5)週に数時間しか授業がない
環境では、それにふさわしい教授・学習方略が必要です。

さらには、
(6)音声中心言語である英語とは異なり日本語が文字中心言語であり、
(7)アグレッシブな自己主張を好まない民族性(言語文化風土)
なども考慮に入れる必要があるでしょう。
この2点は想像以上に強靱です。

そのため、高校での具体的な指導法としては、
(1)母語の資産を活用して日本語と英語との違いを自覚させ、
(2)文法を明示的・体系的に教え、
(3)読解力に中心を置き、
(4)反復的な経験を要する日常会話などは付随的に教える、
などが必要ではないでしょうか。
これらは、岡倉由三郎をはじめ、明治以降の日本人が苦労して獲得してきた指導法です。
一言で言えば、「英文解釈法」の復権です。

なお、音声指導はとても大切です。音声に弱いと、単語を覚えるにも、英文を読むにも困難だからです。
本来の英文解釈法は音声指導を重視しています。単なる英文和訳法ではありません。

グローバル・ビジネスなどに従事するごく一部の日本人や、英語圏の留学先などでは、英語が「第二言語」あるいは主観的な幻想としては「国際共通語」なのかもしれません。

しかし、圧倒的多数の日本人にとっては、日常生活でも、仕事でも英語が使える必要はありません。
久保田竜子さんによれば、ハローワークで求人要件に英語力を求めている会社は0.6%にすぎません。

学校教育に必要なのは、将来必要に迫られたときに自力で英語力を獲得できるための基礎力であり、他文化を複眼的に見ることのできる人間的な教養です。

公教育の外国語教育政策は、こうした一般国民の視点に立って立案しなければなりません。

そのイロハを忘れて、グローバル展開をとげる巨大企業の利害に合わせて政策を立てているところに、病根の奥深さがあります。

(つづく)