希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

新学習指導要領にどう対処するか(5)

昨日(8月26日)は、アメリカ留学に出発するゼミ生の送別パーティーがありました。

「お見合いゲーム」で盛り上がったあとは、アメリカで寂しくないようにと、みんなで作った写真・コメントアルバムを渡し、ゼミの合宿やキャンプが写っている「エリゼミDVD」を鑑賞し、手渡しました。
うるうる・・・

さて、センチメンタルな気持ちは抑えて、新高校指導要領の問題点について考えていきましょう。

掲載しているパワポのスライドは、8月16日に大阪大学中之島センターで開催された「教員のための英語リフレッシュ講座」でプレゼンしたときのものです。

主宰された成田一教授(大阪大学)のご依頼タイトルは「新学習指導要領を斬る!」というものでした。
でも、このタイトルでは先生方が管理職から出張のハンコを押してもらいにくいだろうという政治的判断から、温厚な僕は「新学習指導要領にどう対処するか」にさせてもらったのでした。(^_^;)

で、今回はまず(2)BICSとCALPの混同という問題点について。

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高校の英語教育では、平易な「日常伝達能力」(BICS:Basic Interpersonal Communicative Skills)にとどまらず、高度な内容について読み、書き、論じるための「認知学習言語能力」
(CALP:Cognitive/Academic Language Proficiency)の育成が不可欠です。

日常会話のようなBICSのレベルなら、授業のかなりの部分を英語で行うことも可能でしょう。
それでも、授業効率や生徒の理解を考えると日本語を排除すべきではありませんが。

しかし、CALPのレベルの英語力をわずかな授業時間で育てるためには、背景知識や文法などの指導を中心に、母語という資産を積極的に活用した方が効果的かつ効率的です。

語彙数を4割増やすという新しい方針は高度なCALPを高めるものですから、BICS向けの「授業は英語で」と矛盾します。

日英比較などを通じて日本語を再認識させ、鍛錬し、言葉への興味を深めさせるためにも、日本語の適切な使用が推奨されるべきです。

とりわけ高校時代は、抽象的および論理的な日本語力(=思考力)を磨き上げる大切な時期ですから、外国語学習を通じて母語との格闘を体験させ、母語力を飛躍的に高めることが、CALPレベルの外国語力を高める上で決定的に重要な基盤になります。

特に、最近のケータイ&ツイッター世代は短いフレーズの日本語を非論理的に並べる習慣が染みついていますから、抽象的で論理的な長文の日本語に慣れさせるだけでも大変な労力がかかります。
国語学習を通じての日本語力の鍛錬という側面は、これまで以上に重要であると言えるでしょう。

そうした貴重な機会を奪う「授業は英語で行う」という方針は、若者(つまりこの国)の置かれた状況に対してあまりにノーテンキなのではないでしょうか。

なお、外国語学習にとっての母語の重要性については、BICSとCALPの区別を提唱したCumminsなども主張していますが、やはりヴィゴツキーの天才的な洞察を引用しないわけにはいきません(『思考と言語』下114頁)。

外国語のこのような意識的・意図的習得が、母語の発達の一定の水準に依拠することは、まったく明らかである。子どもは、母語においてすでに意味の体系を支配(マスター)しており、それを他の国語に転移しながら、外国語を習得する。が、また逆に、外国語の習得は、母語の高次の形式の支配(マスター)のための道を踏みならすのである。

学習指導要領という重要な文書に関わる人たちは、ぜひこうした基礎理論と、学校と子どもの現状をリアルに認識してほしいと思います。

日本経団連の副会長(新日鉄会長)だった人が中央教育審議会の会長を務めたり、外国語専門部会の中に公立中学・高校の英語教員が一人もいないという現状は、金権腐敗の自民党田中派の末裔である小沢一郎民主党の代表選挙に立候補するのと同じくらい恥ずかしいことです。

おっと、すみません。

次に、授業を英語で行えば成果が上がるという学問的な裏付けがない点を指摘したいと思います。

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スライドで引用した金谷憲氏の文章は、「『オールイングリッシュ絶対主義』を検証する」(『英語教育』2004年3月号)からのものです。この号は授業は英語で行うべきか否かが特集ですから、ぜひお読み下さい。

それにしても、学問的な確固たる裏付けもなく、しかも中教審外国語専門部会の合意も得ずに「授業は英語で」などと決めたのですから、・・・いやはや。末期症状ですね。

生徒や教員の実態を無視した方針であることも、数字で指摘しておきましょう。

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「授業は英語で」を盛り込んだ人たちは、現場の教員への強い不信感があるようです。
といっても、強い思い込みからの勝手な不信感ですが。

確かに、一部には退屈な説明や和訳をだらだらと続け、生徒の意欲を十分に引き出せない教員もいますが、大半は様々な工夫を凝らして献身的に授業を進めています。

私自身、そうした実践を続ける先生たちと年に何度も交流しています(この7・8月だけで、そうした機会を6回持ちました)。
また可能な限り、出前授業などで中学生や高校生に対して直接教える機会を持つようにしています。

大切なことは、交流を重ねることで現状をリアルに把握し、上から目線ではなく、中学・高校の教員と同じ目線で授業改善のための方策を考え、励まし合い、同僚性を高めることではないでしょうか。

新指導要領に欠けているのは、この点です。

(つづく)