希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

新学習指導要領にどう対処するか(7)

新高校指導要領(外国語編)に対する批判を続けてきましたが、ひとまず今回で終わりです。ふー。

その前に、広島大学の柳瀬陽介先生が外国語教育における日本語利用の意義について、「翻訳教育の部分的導入について」と題した極めて優れた文章を書いておられるので、ぜひお読みください。

柳瀬先生は、「翻訳」「英文和訳」「作業訳」、そして「英文解釈」を厳密に区別した上で、翻訳の意義について次のように書かれています。

「翻訳を行うことは、英語を深く理解することと日本語を掘り起こすことを同時に複合的に行うことだと私は考えます。翻訳が高度の言語教育の一つというゆえんです。」

「翻訳教育には実利的な、というより副産物的な意義もあると思います。それは翻訳作品に対して批判的に接することができるということです。」

いずれも、言葉の教育を考える上で、とても重要な視点だと思います。

だから、英語の授業(特に高校)では、日本語に訳させる活動も積極的に導入して、英語と格闘させる必要があるのです。

さて、本題と関係するので、再び柳瀬陽介先生のブログから珠玉の言葉を引用しましょう。
→「純粋な『英語教育』って何のこと? 複合的な言語能力観」

現行の指導要領の枠組みでしか物事を考えない人は英語教育界には結構いますが、私はどうもそうした思考法に共感できません。

「はじめに学習指導要領あり、学習指導要領は神とともにあり、学習指導要領は神なりき。万物はこれに由りて成り、成りたる物に一つとしてこれによらで成りたるはなし」

これはは大学人・研究者の思考法ではないでしょう。

深く共感します。

これまでも文部省と学習指導要領は幾多の誤りを犯してきました。
英語教育に限って、いくつかの例を挙げてみましょう。

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文科省の個々のスタッフは献身的で有能な人も多いのですから(私の教え子もいます)、財界や与党政治家の顔色ばかりをうかがう組織の体質を改め、もっと学校の第一線で働く教員の声を聞き、一緒になって次世代を育成していく必要があるのではないでしょうか。

大切なことは、日本の言語環境にふさわしい外国語としての英語教育(EFL)の方針を立てることです。
その際に、学校教育では「英語が使える日本人の育成」を目標にしてはなりません。不可能だからです。

英語教師は、ときに国民世論(多数派)とも闘わなければなりません。戦うと言うよりは、粘り強い説得ですが。

たとえば、よく「6年も英語を勉強したのに、使い物にならない」と言われますが、これは当たり前ですよということを、具体的に説得できないといけません。

英語の時数は6年間でせいぜい約850時間、中学用教科書は3年分でペーパーバック19ページ分、高校の難関用も加えて80ページ分程度です。
この程度で「英語が使える」はずがありません。何より、日本では授業や試験のとき意外に英語を使う機会はほとんどありません。

ちなみに、子どもは小学校に上がる前に約15,000時間から20,000時間も母語に接します。
もちろん、第一言語母語)の獲得と第二言語(異言語)の習得とを同一視することはできませんが、言語的距離の大きく隔たった英語を、わずか1000時間以下の「授業で」「使えるようにする」のは不可能です。
真剣に外国語と格闘した人であれば、そのことはおわかりでしょう。

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日本では英語での日常会話は「非日常的」ですから、すぐに忘れてしまい、学力として定着しにくいのです。
幼少期に英語圏で暮らした帰国子女は見事に英語を操りますが、日本に来てしばらくすると英語をほとんどしゃべれなくなります。会話力とは、そういうものです。

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明治以来の先人たちが苦労して獲得してきた学習英文法英文解釈法から、私たちもっと謙虚に学ぶべきです。

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この点については7月の慶應シンポで詳しく述べました。
過去ログ「英文解釈法の歴史的意義と現代的課題」を参照してください。

大切なことは、生徒たちに英語が「わかる」喜びを実感させ、多様な言葉と文化の面白さと深さに気づき、それらを足がかりに「自分で学べる」だけの基礎・基本を身につけさせることです。

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学校教育で可能であり、目指すべきは、自律的な学びを可能にするための基礎基本の力を付けさせることなのです。

仕事や海外生活で英語力の必要に迫られたときに、自力で(ただし集中的で猛烈な努力が必要ですが)英語を獲得できるだけの基礎力を付けさせる。
その点は他の教科と同じです。「実践的な」跳び箱とか、実践的な「源氏物語」なんてないように。

学校も子どもたちも多様な個性を持っていますから、国家が一律に方針を押し付けるのは時代遅れです。

行政に必要なのはただ一つ。教育条件の整備に全力を尽くすことです。
現状では、この最も大切な点がまったく不足しています。
大切なのは立派な校舎ではなく、教員の増加とクラス定員の削減、そして授業料や教材費などの徹底した無料化です。

教育条件を整備した上で、学校現場の裁量権を最大限尊重し、自由で自主的な教育実践を保障しなければなりません。

ですから、学習指導要領は最小限の指針を試案として出すか、(特に高校では)廃止すべきです。

今回の「授業は英語で」は、学習指導要領が学校教育の阻害要因であることを白日の下にさらけ出しました。

その点に、新指導要領の最大の歴史的意義があると言えるでしょう。