希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

新学習指導要領にどう対処するか(6)

文部科学省太田光春視学官といえば、新学習指導要領の策定時に外国語の教科調査官をしていた人で、「授業は英語で」の方針に深く関わった人物の一人です。

その太田氏と会って話を聞いた友人によれば、氏は「学習指導要領は法律です」と言い放ったそうです。

おいおい!
「法律」ならば、国会の議決を経なければならないでしょう。
まさか、小学生でも知っている常識をお持ちでないはずはありません。
権力を持つ立場ですので、慎重の上にも慎重な言葉づかいを要望します。

こうした発言をする人であれば、「授業は英語で」などという言葉も、深く考えずに指導要領に盛り込んだのでしょうか。
だから、最近は太田氏も松本茂氏(立教大)も、さかんに「必要なら日本語を使ってもいいです」と言い訳しているのでしょうか。

しかし、文字で書かれた「授業は英語で行うことを基本とする」が、法律ではなくとも「法的拘束力」を持つとされる以上、口頭ではなく指導要領の訂正によって「この方針は誤りだった」ことを認めなければなりません。

そうでないと、「国歌」や「国旗」の事例のように、学校現場では暴力的で殺人的な破壊力を持ちかねません。

なお、太田氏の基本的な考え方については以下をご参照ください。
http://www.gakko-oendan.com/staticpages/index.php?page=report090119

また、山口の松井孝志さんとyoshi mottoさんからは、以下のサイトを教えていただきました。
http://www.eiken.or.jp/eikentimes/special/20100501.html


太田氏は「英語は、世界の共通語(lingua franca)です」と述べていますが、英語圏以外に行けば誰でも気づくように、事実とまったく異なります。
何よりも、世界に6000以上ある言語の一つに過ぎない英語を「世界の共通語」などというのは、恐るべき言語帝国主義ないし英語ファシズムだと思います。
少なくとも、「外国語」の教科調査官や視学官が口にすべき言葉ではないでしょう。

さて、高校新指導要領の問題点について、しつこく追及を続けましょう。

今回はまず、「授業は英語で」は教師の裁量権を侵害しているという点です。

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旭川学力テスト訴訟の最高裁判例(1976)でも、学習指導要領は教育課程の大綱的基準にすぎず、使用言語の選択などの授業方法まで拘束できないことを明らかにしています。

ですから、「授業は英語で」という特定の指導法(Direct Method 直接教授法)を押し付けることは越権行為であり、法令違反です。堂々と無視し、ボイコットしましょう。

また、この方針は「特定の指導法に片寄ることなく」と明言した1958年の学習指導要領とも自己矛盾しています。

そもそも、英語教授法史をひもとけば明らかなように、学校教育の場では、外国語だけで授業をするDirect Method(直接教授法)が効果的であるなどということは一般化できません。

歴史は、むしろ反対のことを教えています。
日本では、オーラル中心の教授法は失敗の歴史を重ねています。

1922年に来日し、文部省顧問として英語教授研究所を設立した英国人H. E. パーマーは、当初は英語だけによる純粋のオーラル・メソッドを提唱していましたが、日本の学校現場ではあまり受け入れられませんでした。

やがてパーマー自身も日本の実情を理解し、1927年を転換点として、当初は否定していた日本語の使用や英文和訳を容認するようになりました(小篠敏明『Harold E. Palmerの英語教授法に関する研究』1995)。

当時の中学生は成績優秀なエリート集団で、英語が週6~7時間あったにもかかわらず、授業を英語で行うことなど不可能だったのです。

戦後に導入された米国人フリーズのオーラル・アプローチも、人気は長続きしませんでした。

歴史から何も学ばないから、同じ誤りを繰り返すのです。

「経験と歴史が教えることは、人民や政府はかつて歴史から何も学ばなかったということであり、歴史から引き出される教訓に従って行動したこともなかったということである。」ヘーゲル『歴史哲学講義』)

ヘーゲルの重い箴言の中には「人民」も含まれています。
自戒を込めて、この言葉を反芻しましょう。
子どもたちを犠牲にしないために。

次に、「授業は英語で」は近年その成果が注目されている協同学習などのグループ活動にふさわしくありません。

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協同学習は少人数グループで生徒同士の学び合い・教え合い・高め合いを促進する指導法ですが、「授業は英語で」と決めてしまっては、子ども同士の自由な発言が引き出せません。

ですから、「授業は英語で」は、教師が教壇の上で一方的に「講義」をする旧態依然たる一斉授業を想定しているのではないでしょうか。

もちろん、日本語で必要以上にだらだらと解説や和訳だけをしている退屈な授業では困ります。
モチベーションを高めるために工夫をこらし、必要なときにはなるべく英語を使いましょう。
素直に、そう言えばいいのではないでしょうか。

補足として、韓国や中国などでも会話偏重を是正する動きがあることを紹介します。

中国では、5年間の比較実験をふまえた1999年の調査報告で、コミュニカティブな教授法と伝統的な文法訳読式教授法の「両方をうまく統合した教育が望ましい」と結論づけています。(鳥飼玖美子『TOEFLTOEICと日本人の英語力』講談社現代新書、2002)

韓国でもオーラル重視がEFL環境に不適合として軌道修正を開始したそうです。
マレーシアでは学力低下のため数学・理科の英語による授業を廃止しました。

近年はヨーロッパでもコミュニカティヴな教授法の効果を疑問視する研究が出されており、文学教材の復権も進んでいるようです。

(つづく)