希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

古谷専三の波乱の生涯(前編)

名著『英語のくわしい研究法』(たかち出版、1979)や『英文の分析的考え方18講:英文解釈・古谷メソッド・完結篇』(たかち出版、1982)を手にして以来、著者である古谷専三(ふるや せんぞう)のことが気になってしかたがなかった。

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上記の本の「著者紹介」には、「明治27年神奈川県生。小学校教員より出発。昭和16年以降日本大学教授・・・」と、ごく簡単に紹介されているだけ。
だが、小学校教員から出発して、どうして英文学専攻の大学教授になったのだろう?

それやこれやで調べていると、1913(大正2)年の雑誌『中学世界』(第16巻第12号)に掲載された「本年度官立諸学校入学試験合格者一覧」の第一高等学校(東大教養学部の前身)の第一部乙類(文科系でドイツ語が第一外国語)のところに「神奈川 古谷専三」とあるではないか!

古谷は天下の難関校である一高に合格していたのである。
(なお、古谷のすぐ右には、のちに東大教授となって哲学・美術史を講じた矢崎美盛がいる。)

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これをきっかけに、さらに調べたくなって『文学・わが放談:古谷専三随想集』(新生社、1966)を群馬高専の図書館から取り寄せて読んでみると、「定年老教授のくりごと」に伝記的な記述があった。

これらをつなぎ合わせて、古谷の略歴と人となりを書いてみよう。

古谷専三(1894~1991)
1894(明治27)年に神奈川県生まれた。
1913(大正2)年に第一高等学校に入学したが、半年ほどで退学。小学校教員を養成した師範学校第二部(中卒者が入る1年コース)を卒業し、小学校教員になる。

当時の感覚では、高等教育機関である一高から中等教育機関である師範学校に移籍するというのは、たいへんな「格下げ」だったが、古谷は一高を「わがままの虫が出て来まして(中略)半年ほどで、あっさりと退学してしまいました」という。

師範学校でも、偉い来賓の前で一部の学生の「低俗無理想を、まともに痛罵する演説をぶって」あやうく放校になりかかったが、助命されて僻地の小学校に赴任する。

そこでも老教師の無気力で姑息な態度を面罵したりと暴れたようだが、数年して校長になる。

ところが「校長という商売はまったくだめで、「世渡り」の術などゼロですから、たちまち失敗して、平教員におとされて遠くに左遷」されてしまう。おまけに結核にかかって療養を余儀なくされる。

この間、図書館で英文学の古典的作品を翻訳と照らし合わせながら読むなど勉強を重ね、難関の文部省中等教員検定試験英語科に合格。

こうして磯辺彌一郎の国民英学会の講師となる。その後、廃校となった同校の校舎を借りて私塾を開き、帝国大学を受験する高校生を指導した。
ところが、この高校生たちの英語がてんでなってない。そこで、彼は「古谷メソッド」を創始するのである。そのいきさつを古谷は次のように書いている。

「こいつらは頭のよい秀才のくせに、英語のやり方は頭だけを頼んで、論理性も科学性もない、常識だけでこね上げている、しかも少し複雑な形式と内容の英文に対すると、てんでいいかげんな訳文をこね上げるのが関の山である、と観察しているうちに、当時の全国三〇いくつの旧制高校のえらい英語の先生がたの、不徹底きわまる教えかたが、ぼつぜんたる憤慨の種となって、そこでかねて考えていたものを骨子として、私のいうところの論理性一点張りの「古谷メソッド」を創始して、これをいわゆる秀才学生にやらせると、がぜん効果があらわれて、徹底した方法を求めて全国から数百の秀才浪人が集まってきて、ひしめいたものでした。」

いやはや、著書からは温厚きわまりない古谷専三をイメージしていたのだが、なんとも大胆で、激情型で、おもしろい人物だったようだ。

彼の波瀾万丈の生涯はさらに続く・・・

(後編につづく)