希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

古谷専三の波乱の生涯(後編)

古谷専三(1894~1991)の英文読解指導法である「古谷メソッド」が帝大進学をめざす旧制高校生たちを指導する過程で生まれたことは、前回述べた。

古谷はこう語っている。
「私はこのメソッドについては、私の徹底した自我中心的生きかたの一つの表現として、頑固な私の人生を語るものと思っています。」(『文学・わが放談』、以下同じ)

古谷の「自我中心的生きかた」は、その後も知の遍歴にいざなった。

古谷は30歳のころ(1924年前後)に志を立てて早稲田大学の史学科に入る。
ところが、「津田左右吉とか、西村信次とかいうえらい先生が史学科に勢力を振るっていられたのですが、どうも学風でも人格でも、納得がゆかなくて、さっさとやめてしまった」。
結局、早稲田は予科の2年と学部の1年までで退学したのである。

次に入ったのは中央大学の専門部。今度は法律学だ。
1年近く穂積重遠その他のえらい法律学者の講義を聴いたが、「法律を年若いころにつぎこまれることの致命的害悪がピンときたと主観的にきめて」、ここも退学した。

次が日本大学の夜間部で、1938(昭和13)年の春、「かぞえ年46歳のとき、当時ファッショ風潮が外国語や外国文学を排斥する、そうした風潮がしゃくにさわって、その反対に、すすんで新しく英文学を研究しようとして」日大の夜学に入った。
彼の反骨精神ぶりがうかがえる。

整理すると、古谷が入った学校は、旧制一高→師範学校二部(教育)→早稲田大学(史学)→中央大学専門部(法律学)→日本大学夜間部(英文学)

最後の日大の居心地は良かったようで、めでたく1941(昭和16)年の春に卒業。
そのまま日大法文学部で教養の英語を教え、翌年に農学部が発足すると予科教授になった。
「ここでもあまりおとなしくはなくて、学生のあるものをなぐって問題を起こしたりしました」とのこと。やれやれ。(^_^;)

そのうち戦争が激しくなると、勤労動員の学生を連れて製鋼生産の工場に行き、そこでも「工場当局とも配属将校とも相当にやりあって、痛快なこともありました」とのこと。やれやれ。ほんと、喧嘩っ早いんですね。(^_^;)

敗戦後は「感ずるところあって連合軍司令部の翻訳兼検閲係となり」、2年後に日大に戻って歯学部予科で英語を教え、さらに2年して文学部の助教授として英文学を講じるようになった。その後、教授に昇格。

1959(昭和34)年にジョージ・エリオット研究で文学博士号取得。同年には奥さんを癌で失った。

日大の定年にともない、1966(昭和41)年より帝京大学教授、1976(昭和51)年退職。

ジョージ・エリオットを中心とした英文学の研究書のみならず、英語参考書としては以下のものがある。
『高等英文解釈(正・続)』(山海堂、1949・1950)
『古谷メソッドによる初級英語入門』(山海堂、1950)
『英語の徹底的研究(基礎編・応用編)』(績文堂、1952)
『英語のくわしい研究法』(たかち出版、1979)
『英語のやさしい入門の本』(たかち出版、1980)
『英文の分析的考え方18講:英文解釈・古谷メソッド・完結篇』(たかち出版、1982)がある。

古谷専三は、なんとも面白い人だ。

余談だが、精読主義の「古谷メソッド」には根強いファンがおり、この方法を用いた英語通信教育もあった。

駿台予備学校で教えた薬袋善郎(みない よしろう)も古谷ファンの一人である。
彼は東大法学部の学生時代に古谷の本を読み、そのあまりに読解力に感嘆して、90歳近い古谷の自宅を訪ねた。こうして、週1回マンツーマンで教えを受けた。

高齢の古谷にはテキストの活字はほとんど見えなかったが、薬袋の音読と訳を聞いて問題がなければ小声で「よろしい」と言い、読みが不十分だと黙ったまま。

薬袋は「先生の前で脂汗を流しながら、どの語がいけないんだろうと、ウンウン考える」ことを繰り返した。

こうして、「一語もおろそかにしてはいけないこと」を学び、「どういうところに疑問をもたなければいかないのか」を知ったという(『思考力をみがく英文精読講義』「はじめに」)。

駿台で絶大な人気を誇った薬袋の方法の基礎は、古谷メソッドだったといえよう。

こうして、1991年に古谷が亡くなった後も、古谷メソッドのDNAは後世に引き継がれることになったのである。