明治期の旧漢字と独特の文体を読みこなせるかどうか不安でしたが、みんな一生懸命下調べをしてきて、協力しながら読みこなせたのはあっぱれでした。
なによりも、岡倉の見識と英語教育目的論(教育的価値と実用的価値)の豊かさに、みんな感動していました。
学校教育としての英語科教育は、一握りの英語ができるエリートを育てることだけに特化してはなりません。国民全体に責任を負うからです。
しかし「提言」には、英語を苦手とする子どもへの指導法や配慮はまったく書かれていません。
「実践的跳び箱」や「実践的源氏物語」という問題設定がおかしいように、学校での英語科教育は実社会ですぐに使えることを目標としてはならず、またできず、いわば教養科目の一種です。
人間が持つ多様な可能性を伸ばし、全面的な発達を促すための一分野なのです。
その意味で、将来英語を必要としない人にも学習の機会が必要なのです。
その意味で、将来英語を必要としない人にも学習の機会が必要なのです。
「検討会」のみなさんは、そうした学校教育の原点をどうして忘れてしまったのでしょうか。
経済界にしか目を向けないのでしょうか。
経済界にしか目を向けないのでしょうか。
なのに、なぜ英語科教育だけが「使えない」「役に立たない」を批判を受けるのでしょうか。
ちょうど100年前に出た岡倉由三郎の『英語教育』(1911)を読めば、そうした財界らの要求がいかに理不尽で反教育的なものかがわかります。
この本を現代語訳にして出版したいくらいです。