希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

高校英語科での協同学習を見学して

11月17日(木)、往復5時間をかけて、ある県立高等学校を訪問し、英語科の授業を見せていただきました。

校長先生が協同学習の導入にたいへん熱心で、英語科にもぜひ取り入れたいとのご意向で、お招きいただきました。

最初に、協同学習を取り入れた若手の先生の授業を見学しました。

僕はいつものように、教室の前側のドアを開けさせていただいて、前からニコニコしながら生徒の様子を観察します。
(「気にしないで、普段通りでいいんだよ。一杯まちがえていいだよ。」というオーラを送りながら。)

第一印象。生徒たちの表情がとても明るく、50分の授業中、何度も笑いが起こりました。
先生も肩の力を抜いておられて、とても自然体です。

前半は男女混合の4人グループで、教科書の本文を和訳し、仲間で相談しながら小さなホワイトボード(50㎝四方くらい)に各班の訳を書いていきます。

辞書を引いたり、相談したり、みんな真剣で、活動に加わっていない生徒は誰一人いませんでした。
生徒同士の学び合う関係ができています。

強いて言えば、いきなりグループ学習にする前に、個人単位で考える時間を与えてもよいかと思いました。

さて、こうして協力し合いながらできあがった訳を書いたホワイトボード(「発表ボード」)を黒板に貼りに行きます。
両端に磁石が着いているので、すぐに貼れるのです。これはお勧めです。

イメージ 1

黒板にずらっと並んだボードを、生徒たちは食い入るように見つめています。
「自分たちの作品」ですから、緊張感が違います。
(生徒の表情の写真をお見せできないのが残念です。)

先生はそれぞれの訳の良いところ、おかしなところにコメントを加えていきます。
生徒たちはその都度、「おー!」と歓声を上げたり、笑ったり。
ぜんぜん集中が途切れません。

”can walk an elephant”の部分でミスが集中しました。
このwalkを中学時代のように「歩く」と自動詞として扱ってしまっては、この部分は理解できません。

ここで先生は、「辞書を引いて確かめてみよう」とフィードバックします。
生徒たちは辞書を通じて、Walkの他動詞としての性質を「発見」するはずです。

でも、ちょっと残念なことに、先生は生徒たちが「発見」する前に解答を言ってしまいました。
それをせずに「生徒たちの気づきを待つ」ことができれば、さらに学びは深まったのにと思いました。

授業では、あせらずに「生徒自身による発見を待つ」という行為がたいへん貴重です。
多少時間はかかっても、その方が確実に定着するのです。
途中までワクワクドキドキのミステリー。なのに、結末をいきなり言われてしまったら、シラけてしまいますよね。

一番感動したのは、2時02分のときでした。
生徒の一人が、「先生、(机をコの字に)戻す?」と突然声を掛けたのです。

授業の次の展開を予測し、今の活動が終わったら4人チームから「コの字型」の机配置に戻すべきだということを生徒自身が自然に自覚していたのです。

まさに生徒と教師との「あうんの呼吸」です。
見えない信頼の糸で結ばれています。
生徒たちが受け身ではなく、授業を主体的に担っている感覚でした。

こうしてコの字型の机配置(同校では一般的にこれ)に戻し、最後の15分は教科書本文に関する先生の「解説」でした。

指導案を拝見したときに、15分の「解説」とあるのを見て、いやな予感がしました。

日本語による、ツボを得た解説なのですが「15分は長いだろうな」と思って聴いていました。

すると、さっきまであれほど元気だった生徒たちが、だんだんと顔を下に向けていきます。
目から精気が消え、退屈そうな表情を見せる子もいます。

教師主導の「教え込み」の尻尾がまだついていたようです。
(でも大丈夫、この先生は確実に成長します。)

不思議なのですが、教師の話が長くなればなるほど、子どもたちの学ぶ意欲が減少していきます。
同じことは、先日の中学校でも経験しました。

大学でも同じです。

僕は90分の授業中、いわゆる「講義」(一方的な話)は原則として1回5分以上はしません。
大半が学生同士の活動であり、学び合い、討論、成果発表、相互批評、振り返りです。
学生たちは生き生きと学び、確実に力量を付けていきます。
なんせ、90分間、サボる暇がないのですから。

追伸
明日19日(土)から和歌山大学の学園祭「和大祭」。
午前10:30過ぎから僕らの教員ロック・バンド「先コウ花火」のライブを予定しているのですが、なんと雨!
ライブできるかな・・・