11月17日(土)の和歌山英語教育研究会、18日(日)の日本英語教育史学会研究例会(東京)を挟んで、今週金曜日と来週月曜日に2つの高校(和歌山県立南部高校と滋賀県立草津高校)をまわり、協同学習を取り入れた英語授業改革の進め方についてお話しさせていただきます。
このように、ついに高等学校でも、協同学習ないし「学びの共同体づくり」を核とした授業改革が熱心に進められつつあります。
しかし、そうした熱心に改革に取り組む学校がある反面で、旧態依然たる一斉型、教師説明型に終始する高校、あるいは教員も少なくありません。
私は、仮に一斉型であったとしても、生徒たちが生き生きと学び、学びの質が高ければ、それもありだという立場です。
しかし、実際に見学させていただいている限り、一斉型・教師の解説中心型で、生徒たちが質の高い学びをしている例はまず見たことがありません。
情報環境が、10年前とは様変わりなのです。
インターネットやケータイ、スマートフォンで双方向的な情報交換がリアルタイムで可能な現在、紙とチョークだけで、一方的に長々と解説する授業が、生徒たちにとって、どれほど退屈か。
インターネットやケータイ、スマートフォンで双方向的な情報交換がリアルタイムで可能な現在、紙とチョークだけで、一方的に長々と解説する授業が、生徒たちにとって、どれほど退屈か。
子どもたちのせいではありません。
「これほど社会が変わり教育も変わったというのに、日本の高校の授業風景と言えば、半世紀以上も何一つ変わることなく旧態依然とした一斉授業が繰り返されてきた。そして受験による脅迫とテストによる管理。しかし、このいずれもが、もはやほとんどの生徒に対して効力を失っている。教室では、突っ伏して顔を上げない生徒、おしゃべりがとまらない生徒、内職に専念する生徒、そしてノートはとるが何も考えない生徒が大半を占め、授業に参加して学んでいる生徒は数人しか見当たらない。それでも大声をあげ、授業を遂行している教師は、この異常な風景を常態として受け入れてしまうほど、教師としてのまっとうな感覚や感性を麻痺させて仕事を続けるしかない。生徒と同様、教師もまた一斉授業の教室の被害者である。」
厳しい言葉ですが、全国の1万以上の教室を観察してきた佐藤先生ならではの鋭い指摘ではないでしょうか。
末尾の「生徒と同様、教師もまた一斉授業の教室の被害者である。」という言葉には、佐藤先生の愛情を感じます。
統計的なデータを見ても、佐藤先生の指摘は裏付けられます。
大修館書店の『英語教育』2012年10月増刊号に寄稿した「英語教育日誌」でも述べたのですが、ベネッセ教育研究開発センターが2011年4月に発表した「学習指導基本調査(高校版)」では、高校教員の約8割が「生徒の学習意欲の低さ」と「小中学校での学習内容の未定着」に悩んでいます。
では授業の進め方はどうしているかというと,「教師からの解説の時間」を重視すると回答した高校教員が48%と最多で,中学教員(24%)の2倍です。
他方,「生徒が考えたり話し合ったりする時間」を重視する高校教員は,わずか20%(中学教員は42%),「生徒の発言や発表の時間」を重視する高校教員も25%(中学教員は最多の47%)と少ないのです。
このように、小グループによる協同学習などの指導形態が進む中学校などに比べ,高校では依然として教師主導の解説中心の授業が多いことが明らかになっています。
高校の英語科では,2013年度より「授業は英語で行うことを基本とする」となるため,気をつけないと「英語による解説中心の授業」となり,英語がわからない生徒を急増させる可能性があります。
そもそも、「授業は英語で」などという教師主導型を前提にした方針こそ、「旧態依然たる」発想なのです。
授業は教師と生徒とが一緒に作り上げるアートです。
授業の構成員の人的比率は1対40です。
その40人もの学び合う力を封じ込める「一斉型」は、授業の自己破壊行為ではないでしょうか。
授業の構成員の人的比率は1対40です。
その40人もの学び合う力を封じ込める「一斉型」は、授業の自己破壊行為ではないでしょうか。
また、知的・内容的な意味でレベルが低い教材を使って「英語で」授業を行ったところで、生徒たちの知性と言葉への感度がどれほど高まるのでしょうか。
学習意欲の低下や低学力を克服するためには,旧来型の一方通行的な授業スタイルを改め,生徒同士の学び合いや協働的な活動を中心にした指導方法へと転換する時期に来ていると思います。
そして、英語を金儲けの「道具」や「技能」ととらえる貧困な発想と決別し、質の高い、知性と感性を育てる教材を発掘し活用する必要があります。