希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

シンポジウム「英語の学び方再考」5.27 日本英文学会大会で

1月30日に滋賀県の高校をお邪魔し,授業を拝見後に,英語科の先生方と協同学習を導入する際の課題などについて,意見交換をしてきました。
とても有意義な会でした。

さて,本年5月26-27日に専修大学生田キャンパスで開催される日本英文学会第84回大会の2日目に,英語教育に関係したシンポジウム「英語の学び方再考:オーラル・ヒストリーに学ぶ」が開催されます。

鳥飼玖美子先生,山内久明先生,それに私がパネリストです。

大会実行委員会からプログラムが送られてきましたので,いち早くお知らせいたします。

時:2012年5月26日(土)・27日(日) 
            
所:専修大学生田キャンパス(神奈川県川崎市多摩区東三田2–1–1)
私たちのシンポは,10号館1階10102教室

第十二部門 5月27日(日)10:00 ‒ 13:00

英語の学び方再考:オーラル・ヒストリーに学ぶ

司会    広島大学准教授 今 林 修
講師   立教大学特任教授 鳥 飼 玖美子
講師    和歌山大学教授 江利川 春 雄
講師   東京大学名誉教授 山 内 久 明

<概要は以下の通りです>

今 林  修(司会者)より
 
英語を学ぶ上で古今東西の英語学習の成功者の体験から自らを省みることが意義のあるというのは異論がないだろう。英語学習における成功者の学習法を研究した場合、基礎や文法の重要性とか、文学の多読などに議論が収斂していくことになるかもしれないが、英語を学び、そして英語を教える者にとっては英語の学び方は大事な視点である。英語を学ぶことの意義と方法を今一度考え直し、そしてそれらを伝えていくことも我々英語教育に携わる者の大きな役目である。
本シンポジウムではテーマを英文学、英語教育、英語学習史、異文化コミュケーション、同時通訳を専門としてきた講師自身の英語学習歴を出発点として、オーラル・ヒストリーを実践していく中で現在の英語教育の抱える問題を描き出し、それを乗り越える展望をフロアの皆様と共有していきたい。

同時通訳パイオニアのオーラル・ヒストリーより
鳥 飼 玖美子 

オーラル・ヒストリーとは、個人の経験から社会や文化の諸相を読み解き、個人の語りから歴史を再構成するものである。一般化が可能なのかという批判はあり得るが、その人ならではの語りは、統計からは得られない豊かな知見を私たちに与えてくれる。
その一例として、筆者が2003年から2004年にかけて行った同時通訳者パイオニアのオーラル・ヒストリー(『通訳者と戦後日米外交』2007、みすず書房)から、英語学習、英語教育に関わる部分を抽出して紹介する。インタビューは、戦後日米外交で活躍した西山千、相馬雪香、村松増美、國弘正雄、小松達也の5氏に対し実施したが、その中で特に、戦前の日本で生まれ育ち、戦時中から戦後にかけて英語を学んだ村松、國弘の両氏に焦点を当て、戦時中の日本で行われていた英語教育の実態や、同時通訳者になるまでの英語学習を振り返っての語りから、外国語としての英語学習についての示唆を得ることを試みる。

日本人の英語学習史から学ぶ
江利川 春 雄
 
日本語と英語とは音声や文法などの言語構造が著しく異なる。日常生活で英語を使う必要もないから、あくまで外国語(EFL)として意識的に学習しなければならない。そのために明治以降の先人たちは、日本人に最適の英語学習法を独自に開発してきた。その典型が「学習英文法」や「英文解釈法」などであり、学校教育や受験参考書などを通じて普及した。
だが、こうした学習法は「旧式」として排斥され、特に1990年ごろから学習指導要領は会話中心の「コミュニケーション」重視を推奨してきた。しかし、高校入学時の英語学力は一貫して低下し、1995年から14年間の下落幅は偏差値換算で7.4にも及んだとする研究もある。英語が「わからない」と回答する生徒も増えている。
だからこそ、今一度、日本人にふさわしい英語学習法を考えたい。そのため、報告では明治以降の英語名人から一般庶民に至る日本人の英語学習史をたどり、今なお有効な学び方を抽出していきたい。

母語と異文化のはざまで:英文学研究の視点から
山 内 久 明
 
視点を逆にして日本語を学ぶ場合はどうか。日本に来ることのなかったイギリスの碩学の英訳によって『源氏物語』が世界文学における古典の地位を得たのは80年前の話。日本で暮らし日本語で執筆する現代アメリカ人作家。日本研究の最高峰を極め、日本に帰化したアメリカ人学者。これらは稀有な超人の例として別格である。他方、普通の話としても、異文化の研究を志す者は、大げさな言い方かもしれないが、母語と異文化のはざまでアイデンティティの分裂・混乱を体験し、自らの多重人格性を意識することが運命づけられている。その場合、ことばは手段としてあるだけでは済まされず、目的と化す。翻って現実に目を向けると、英語英米文学を専攻した者の多くは専門研究者であると同時に英語教育の責務を担い、組織の内外でさまざまな問題を突きつけられている。個人的体験にも触れつつ自戒と反省をこめて、個人の問題と制度の問題を併せて考察することに努めたい。